大黒摩季の殿とは?幼少期は?弟や旦那は?存在しない?
もくじ
大黒摩季さんのプロフィール
大黒摩季さんは、日本の音楽シーンを代表するシンガーソングライターです。
1969年12月31日生まれの北海道札幌市南区出身で、現在55歳。血液型はA型で、身長は約161cmです。
学歴は地元札幌市内の藤女子高等学校を卒業しており、これはカトリック系の私立中高一貫校として知られるお嬢様学校です。
学生時代は、音楽への情熱が早くから芽生え、中学時代にバンド活動を始めました。
部活としてはバレーボールに熱中し、卒業文集には「めざせ全日本、ワールドカップ」と野心的な目標を記すほどでした。
一方、習い事は3歳からクラシックピアノを始め、小学校時代にはすでに作曲を試みるほど音楽に没頭していました。
こうした学生時代の経験が、後のプロデビューへの基盤を築いたのでしょう。
1992年にシングル「STOP MOTION」でデビューし、2ndシングル「DA・KA・RA」がミリオンセラーを記録。
以降、「チョット」「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」「熱くなれ」など、数々のヒット曲を自ら作詞・作曲し、90年代のJ-POPを牽引しました。
1995年のベストアルバム「BACK BEATs #1」は300万枚超のセールスを達成し、ビーイング系アーティストの象徴となりました。
1997年の初ライブで有明コロシアムに4万7000人を動員し、その存在を証明しました。
大黒摩季、『ブラックペアン2』で地上波ドラマ初出演 城田優も出演#大黒摩季 #城田優 #ブラックペアン #TBS #二宮和也 #堺正章 #趣里
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現在も全国ツアーや新曲リリースを精力的にこなし、作詞提供や2024年には俳優業にも挑戦するなど、多彩な活躍を続けています。
大黒摩季さんの殿とは?
大黒摩季さんの殿とは、ロック界のレジェンドである吉川晃司さんのことです。
彼女は長年、吉川晃司さんを「殿」と呼び、憧れの存在として公言しています。
この関係は、単なるファン以上の深い絆で結ばれています。
2010年、子宮腺筋症などの重い疾患で活動休止を決意した大黒摩季さんが、絶望の淵にいた時、吉川晃司さんがユニット「Daikichi~大吉~」を結成し、映画『仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE』の主題歌「HEART∞BREAKER」を共作。
作詞は大黒摩季さん、作曲は吉川晃司さんが手がけ、ツインボーカルでリリースしました。
吉川晃司くんのライブを観に行ってきました❣️❣️最初から最後まで、最高にカッコ良くて元気を貰いました😍😍😍終演後には久しぶりに喋れて、写真も撮れました🥰🥰その場にいた奥田民生さんも3人で写真を撮ってくれました😊😊大黒摩季さんも盛り上げてて、最高でした😊😊#ako55th #guysanddolls pic.twitter.com/lvuhmWVixz
— 和田アキ子 (@wadasoul2015) September 2, 2023
この楽曲は、大黒さんの休養前最後の仕事となり、吉川晃司さんが「この歌を一緒にライブで歌うんだから、帰ってきてね」とエールを送ったエピソードは有名です。
レコーディング中、大黒さんは興奮のあまり足元でカズダンスを踊るほど喜び、復帰後の自信回復に大きく寄与しました。
また、2022年の吉川晃司さんのプレミアムナイト「Guys and Dolls」にもゲスト出演し、共演を果たしています。
こうしたコラボは、彼女のキャリアのレアなハイライトで、ロック魂を共有する師弟のような絆を示しています。
大黒摩季さんの幼少期
大黒摩季さんの幼少期は、音楽との出会いが印象的な時代でした。
実家は札幌で老舗パン屋「札幌キムラヤ」を営む裕福な家庭で、祖父が銀座の木村屋總本店から暖簾分けを受け創業した由緒正しい家系です。
父親の大黒正芳さんは2代目社長、母親の美也子さんはOL時代にヴァン・クライバーンのコンサートに感動し、3歳の誕生日に大黒摩季さんにアップライトピアノをプレゼントしました。
これがきっかけでクラシックピアノを始め、おもちゃ代わりに弾きながら作曲の才能を開花させました。
5歳頃、父親が借金の代わりに持ち帰った1970年代の洋楽ロックレコード(レッド・ツェッピー、ディープ・パープルなど)に触れ、ロックに目覚めました。
性格はマイペースで協調性に欠け、興味を持ったら突っ走るタイプで、父親からは深夜に料理を教わるなど厳しく育てられました。
小学校は札幌市立石山小学校(現・石山緑小学校)で、卒業文集にバレーボールの夢を記すほどスポーツも好きでした。
中学・高校は藤女子高等学校で、15歳から17歳まで声楽レッスンを受け、音大進学を視野に入れました。
しかし、家業の収入変動から上京を決意し、18歳で単身東京へ。
こうした幼少期のエピソードは、彼女の歌詞に反映され、力強いロックサウンドの原点となっています。
レア情報として、幼少期に父親が貸した金を取り立てに行った相手の家からロックレコードを「借金のカタ」として持ち帰った逸話は、彼女のロック人生の意外な始まりです。
大黒摩季さんの弟は?
大黒摩季さんの弟は、大黒礼騎さんで、2歳年下の兄妹です。
実家の札幌キムラヤを3代目として継承し、取締役社長を務めていました。
父親の死去後、2000年に社長就任し、ピーク時には年商10億円を超える企業を率いましたが、2002年に民事再生法を申請するほどの苦難を経験。
弟夫婦が母親の介護を担っていましたが、大黒摩季さんが東京に引き取った経緯もあります。
2025年9月6日未明、右被殻出血による脳出血で54歳の若さで逝去されました。
2021年に椎骨動脈乖離で奇跡的に生還した過去があり、8月30日の札幌ライブでは家族で参加し、珍しく大黒摩季さんを褒め称える笑顔を見せていました。
9月3日に再発で救急搬送され、家族に見守られながら息を引き取りました。
大黒摩季さんはインスタグラムで1645文字の長文を投稿し、「どうして私から大切な者を奪うのか」と深い悲しみを綴り、札幌キムラヤの2027年創業100周年を守り抜く誓いを立てました。
葬儀は社葬とし、近親者で行われました。
弟は大黒摩季さんを「母親代わり」と慕い、姉の音楽活動を全力支援していたそうで、弟の喪失は、彼女の家族観を象徴する悲しい出来事です。
大黒摩季さんの旦那は?
大黒摩季さんの旦那は、2003年11月11日に結婚した1歳年下の一般男性で、九州出身のIT企業会社員です。
出会いは合コンで、大黒摩季さんの「アーティスト」という自己紹介に対し、「画家ですか?」と返されたほど、彼女の活躍を知らず、新鮮味を感じて交際へ。
スポーツマンタイプで坂口憲二似のイケメンで、「飾り気のないスーツを着た王子様」と評されました。
しかし、2019年4月に離婚。
大黒摩季が離婚発表、50歳は“トライ”の1年にhttps://t.co/FgdubIh6tL pic.twitter.com/7jvRUV2Uen
— 音楽ナタリー (@natalie_mu) December 21, 2019
理由は大黒摩季さんの子宮疾患(子宮内膜症、子宮筋腫、子宮腺筋症、卵巣嚢腫の4つ併発)と不妊治療が実らなかったことでした。
1996年に発覚した病気を抱えながら結婚し、体外受精を繰り返しましたが、仕事のハードさで流産。
2010年に活動休止し、2015年に子宮全摘出。
アメリカでの代理出産も失敗し、2017年に治療終了。
子供を産めない罪悪感から、「彼の幸せを応援したい」と離婚を決意しました。
元旦那は離婚合意後すぐに再婚し、子供を授かりましたが、大黒摩季さんは「私が産めなかった子を産んでくれた」と祝福。
離婚届提出を遅らせたのは、妊娠中のパートナーを守るためでした。
現在は独身で、「ロックと再婚した」と前向きに語り、ボーイフレンドを複数楽しむ「肉食系ヤミ子」を宣言しています。
離婚後、元旦那の子供誕生を「柔らかい心が戻ってきた」と喜び、親友として支える姿勢は彼女の強さを示します。
存在しない?
大黒摩季さんが「存在しない?」と言われたのは、1990年代のデビュー初期に、テレビ出演やライブをほとんど行わず、メディア露出が極端に少なかったことが主な理由です。
デビューシングル「STOP MOTION」(1992年)は売れ行きが振るわず、セカンド「DA・KA・RA」でブレイクしたため、急激な人気に謎が加わり、ファンの間で憶測が飛び交いました。
ジャケット写真がCGっぽいという声もあり、「サイボーグ説」や「丸くてちっちゃいおばさん説」(歌声とビジュアルのギャップから)まで登場。
相川七瀬さんも「3人か5人いる」と噂を信じていたそうです。
大黒さんは自身で作詞・作曲・編曲を手がけるタイプで、締め切りが厳しい楽曲制作に没頭していました。
テレビ出演は「1分半の歌唱のために1日拘束される」ため避け、他の仕事(作曲など)を優先。
シンガーソングライターとしての本質を重視し、表舞台よりスタジオワークを選んだ結果です。
事務所も売り出す戦略として、ZARDの坂井泉水さん同様、ミステリアスなイメージを保つ方針で、最初は「面白い」と噂を放置。
NHK紅白歌合戦のオファーも事務所が断っていたそうです。
大黒さん自身は「当時発言権がなかった」と振り返っています。
あまりにも、歌番組への出演を避け、プロモーションを音源中心に絞っていたため、「大黒摩季は実在しない」「CGやコンピューターで作られた仮想の歌手だ」「ジャケット写真用のビジュアル担当、歌唱担当、作詞担当など複数人で分担している」といった都市伝説が広まってしまいました。
この噂は1997年の初ライブ(有明コロシアム、約4万7000人動員)で一気に払拭され、本人がステージに登場したことで「実在する!」と話題になりました。
以降、全国ツアーを精力的にこなし、メディア露出も増えました。
2010年に子宮疾患で活動休止しましたが、2016年に復帰。現在も新アルバム『55 BLACK』(2025年8月リリース予定)やツアー「55 BLACK TOUR」を展開し、活躍中です。
2025年8月には初のメディア露出から25周年を記念した記事も出ています。
大黒さん本人は後年のインタビューで、「放っておいたら話が大きくなって出られなくなった」「制作に集中できてよかった」と笑い話にしています。
結果的に、このミステリアスさが彼女の魅力を高め、ファンを増やした側面もあります。
今回はここまでです。
これからも、大黒摩季さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!
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