加藤登紀子獄中婚の夫の死因は?再婚は?母親や子供は娘?若い頃や現在は?

歌手・音楽家

もくじ

加藤登紀子さんのプロフィール

 

加藤登紀子さんは、1943年12月27日に旧満洲国ハルビンで生まれました。

 

戦後の混乱期に家族で日本へ引き揚げ、幼少期は京都で過ごしました。

 

 

両親は京都出身で、父は軍人として活躍し、母の淑子さんは家庭を支える存在でした。

 

ハルビンでの生活は、母から度々聞かされた夢のような青春の記憶として、心に残っています。

 

一方で、日本に戻った後、周囲から複雑な視線を感じ、幼い頃から戦争の影を意識するようになりました。

 

幼い頃は、赤面症で声が低いことに悩み、将来人前に立つような活躍をするとは夢にも思ってなかったようです。

 

そんな中、学校生活では活発に過ごし、東京都立駒場高校へ進学します。

 

高校時代は放送クラブに所属し、声や表現への興味を深めました。

 

1962年に大学受験を控え、努力の末に東京大学文学部西洋史学科へ進学。

 

大学生の時にフランス人のシャンソン歌手「エディット・ピアフ」が亡くなり、多くの特番を目にしたことで、ピアフのファンに。

 

そして、自身もシャンソンを歌いたいという気持ちが芽生えました。

 

そして東大在学中の1965年、第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し、翌1966年に「誰も誰も知らない」で歌手デビューを果たしました。

 

以来、日本初の女性シンガーソングライターとして、数々の名曲を生み出し、シャンソンからフォーク、ポップスまで幅広いジャンルで活躍しています。

 

現在年齢が80歳を超えても、コンサートや新曲制作に情熱を注ぎ、平和や人権をテーマにした歌声で多くの人を魅了し続けています。

 

 

獄中婚の夫の死因は?

 

加藤登紀子さんの人生に大きな影響を与えたのが、1972年の獄中婚です。

 

当時、学生運動の中心人物だった藤本敏夫さんと結婚しました。

 

二人の出会いのきっかけは、1968年に研修医制度見直しを求め、学生たちが卒業式をボイコットし、安田講堂前で座り込みをした際に加藤登紀子さんも賛同していたことでした。

 

すでにレコード大賞などを受賞されていた加藤登紀子さんが座り込みしたとの記事を見た藤本敏夫さんが、学生集会で歌って欲しいと加藤登紀子さんに依頼したことで二人の縁がつながりました。

 

加藤登紀子さんの方が、夫に一目惚れしたと言う話がネットでみられました。

 

しかしその後、藤本敏夫さんは学生運動をしたことで、実刑判決を受け刑務所へ入所。

 

その時、加藤登紀子さんは藤本敏夫さんの子供を身ごもっており、加藤登紀子さんは、結婚の意思を確かめるために刑務所へ出向き、結婚を決めました。

 

この結婚は、当時の社会に衝撃を与え、メディアでも大きく取り上げられました。

 

藤本さんは1974年に出所後、加藤登紀子さんと共に千葉県鴨川市に「鴨川自然王国」を開設。

 

有機農業を推進し、自然との共生を提唱する生活を始めました。

 

夫が千葉県鴨川市で農家をはじめたいと言った際には離婚の危機もあったそうです。

 

結局、加藤登紀子さんは東京で歌手活動を続け、どちらかが出向く形で、結婚生活を続け、最後まで添い遂げています

 

夫婦は農業と音楽を融合させた独自のライフスタイルを築き、加藤登紀子さんの歌詞にもその影響が色濃く表れています。

 

しかし、2001年に藤本さんに肝臓がんが発覚。加藤登紀子さんは、夫の闘病生活を献身的に支え、西洋医学と漢方などの代替療法を組み合わせた治療を試みました。

 

藤本さんはがんの進行を抑えようと努力しましたが、2002年7月31日、58歳の若さで肺炎を併発し、この世を去りました。

 

加藤登紀子さんは、夫の死後、その遺志を継ぎ、鴨川自然王国の運営を続けています。

 

藤本さんの命名による長女の名前「美亜子」には、「美しい亜細亜の子」という願いが込められており、夫婦の深い絆を象徴しています。

 

この喪失は加藤登紀子さんにとって計り知れない悲しみでしたが、夫が残した味噌の瓶を眺めながら、みそ汁を作っては彼の存在を感じ、徐々に心の傷を癒していきました。

 

 

再婚は?

 

藤本敏夫さんの死後、加藤登紀子さんは再婚していません。

 

夫の逝去から20年以上が経過した現在も、単身で東京と鴨川を拠点に生活を続けています。

 

加藤登紀子さんは、インタビューで「夫との結婚は、人生のすべてを賭けた選択だった」と語っており、その想いは今も変わりません。

 

獄中婚という異色の出会いから始まった夫婦の絆は、農業を通じた共同作業や、3人の娘たちの子育てを通じて、さらに強固なものとなりました。

 

藤本さんの死後、加藤登紀子さんは一人で鴨川自然王国の維持に奔走し、夫の夢を形にすべく有機農法の普及に尽力してきました。

 

加藤登紀子さんは、孤独を感じる時もあると明かしますが、「夫が残した未来への夢を、受け継ぎ、やり遂げたい」との決意が、彼女の原動力となっています。

 

母親や子供は娘?

 

加藤登紀子さんの母親、淑子さんは、101歳の長寿を全うし、2017年1月2日に老衰で亡くなりました。

 

淑子さんはハルビン時代からの伴侶である夫とともに、戦後の厳しい引き揚げ生活を耐え抜き、娘の加藤登紀子さんを支えました。

 

加藤登紀子さんは、母からハルビンでの青春時代を繰り返し聞き、そのロマンチックなエピソードを自身の歌のインスピレーションにしていました。

 

淑子さんは晩年、加藤登紀子さんと同じマンションで暮らし、孫たちの子育ても手伝うなど、家族の中心でした。

 

90歳を過ぎてから、ハルビンで過ごしたことを書籍化して出版されています。

 

加藤登紀子さんは、母の死を「生きることの大切さを教えてくれた」と振り返り、母の教えが自身の人生観を形成したと語っています。

 

一方、子供については、3人の娘がいます。ちなみに、孫は7人いるそうです(笑)。

 

長女の美亜子さんは、1972年12月7日に生まれ、父の藤本敏夫さんが獄中から命名した名前で、「美しいアジアの子」という意味が込められています。

 

次女の八恵(Yae)さんは1975年12月14日生まれで、母の加藤登紀子さんの影響を受け、半農半歌手として活動中です。

 

Yaeさんは鴨川自然王国を夫とともに引き継ぎ、有機農業と音楽を融合させたライフスタイルを実践しています。

 

三女も加藤登紀子さんの血を引く才女で、家族の絆を大切に自立した生活を送っています。

 

加藤登紀子さんは、娘たちを育てる中で「親は子離れが大事」と実感し、娘たちが巣立った今、互いに支え合う関係を築いています。

 

娘たちは母のコンサートに時折出演し、家族ぐるみの音楽活動も見られます。

 

この母娘の絆は、加藤登紀子さんの歌詞に温かな家族像として反映されています。

 

 

若い頃や現在は?

 

加藤登紀子さんの若い頃は、情熱と冒険に満ちた時代でした。

 

20代の頃は酒豪として知られ、飲酒の席では毎回記憶を失うほど豪快に振る舞いました。

 

東大時代は西洋史を学びながら、シャンソンに没頭。デビュー曲「誰も誰も知らない」のヒットで一躍注目を集め、永六輔さんをはじめとする文化人との交流も深めました。

 

学生運動の渦中でも、歌を通じて平和を訴え、獄中婚という大胆な選択をしました。

 

この時期の加藤登紀子さんは、黒髪のロングヘアをなびかせ、ステージで力強い歌声を響かせる姿が印象的です。

 

30代以降は、夫との共同生活が始まり、農業と並行した創作活動にシフト。

 

娘たちの誕生を機に、家族をテーマにした曲も増えました。

 

2025年にデビュー60周年を迎え、ベストアルバムのリリースやコンサートツアーを精力的にこなしました。

 

鴨川と東京の二拠点生活を続け、朝はヨガや散歩で体を整え、午後からは作曲に没頭します。

 

10月29日には第二弾アルバム『明日への讃歌』を発売し、ビートルズの名曲カバーを含む新譜でファンを沸かせました。

 

また、那覇での「60th Anniversary Concert 2025 for peace 80億の祈り」では、平和を願う歌声を響かせ、故郷ハルビンでの公演も予定しています。

 

加藤登紀子さんは、「50歳で折り返すと思うと楽しい。ちょっとずつ進化していく」と笑顔で語り、死生観さえも前向きに捉えています。

 

年末恒例の「ほろ酔いコンサート」も全国で開催され、聴衆を感動させています。

 

彼女の歌は、波乱の人生を映す鏡であり、聴く者に希望を与え続けます。

 

今回はここまでです。
これからも、加藤登紀子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!

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