中島みゆきの父親と弟の職業は?年齢や若い頃は?結婚は瀬尾 一三?糸や縁会とは?
もくじ
中島みゆきさんのプロフィール
その独特な歌声と人々を感動へと誘う楽曲が有名なシンガーソングライターの中島みゆきさん。
1952年2月23日、北海道札幌市に生まれ、本名は中島美雪さんです。

幼少期は、父親の仕事の関係で転居を繰り返しました。
生まれて間もなく札幌で過ごしましたが、5歳のときに岩内町へ引っ越し、11歳までそこで暮らしました。
岩内西小学校に通い、静かな町の環境で内気なおっとりした性格が育まれたようです。
自伝では、自分を「トロイ子」と表現するほど、のんびりとした子供時代だったと振り返っています。
5歳頃からバレエとピアノの習い事を始め、芸術的な感性を早くから養いました。
11歳のときに帯広市に移り、帯広小学校、帯広第三中学校を経て、帯広柏葉高校に進学します。
高校時代は知的な性格で知られ、3年生の文化祭で初めてステージに立ち、歌を披露した経験が音楽への道を開きました。
大学は札幌の藤女子大学文学部国文学科に進み、卒業しています。
在学中は北海道大学のフォークソング研究会に出入りし、音楽活動を本格化させました。
札幌オリンピックのアルバイトで貯めたお金でフォークギターを購入し、朝5時からのバス通いで懸命に働いたエピソードは、若い頃の努力家ぶりを物語っています。
このような学生時代の多様な経験が、中島みゆきさんの深い歌詞世界を支える基盤となったのです。
中島みゆきの父親と弟の職業は?
中島みゆきさんの父親の職業は、産婦人科医でした。
父親の中島眞一郎さんは、北海道帝国大学医学部を卒業後、産婦人科の分野で活躍されました。
1924年生まれで、帯広市で中島産婦人科医院を開業し、多くの命を支えました。
中島みゆきさんが幼い頃、父親の転勤に伴って岩内町や帯広市への引っ越しを繰り返したのも、仕事の影響です。
医院の開業後、安定した生活もありましたが、ときには経営が厳しく、母親とみゆきさんも病院を手伝っていました。
中島みゆきさんは大学時代より音楽コンテストに出場し、「コンテスト荒らし」という異名をつけられるほど、数々のコンテストで受賞し、賞金を獲得。
獲得した賞金は、病院経営と医者を目指していた弟の学費にしていたそうです。
中島さんは1975年に日本武道館で開かれた世界歌謡祭に出演して「時代」を歌いましたが、その時に父親は病に倒れていたそうです。
この出来事は、中島みゆきさんにとって大きな衝撃で、デビュー直前の試練となりました。
父親の闘病中、病室の窓から秋祭りの賑わいが見え、笛や太鼓の音が遠くから聞こえてきた情景は、後の楽曲に深く刻まれました。
父親は1976年1月に51歳という若さで亡くなりました。
この喪失は、中島みゆきさんの人生観を大きく変え、家族の絆や人生の儚さをテーマにした歌詞が生まれるきっかけとなりました。
父親の職業が産婦人科医だったことは、中島みゆきさんの曲に「誕生」や「命」のモチーフが頻出する理由の一つとも言えます。
中島みゆきさんの弟の職業は、外科医です。
弟は、1955年生まれで、中島みゆきさんより3歳年下です。
幼い頃から成績優秀で、家族の期待を一身に背負い、医学部を卒業しました。
外科の分野で長年活躍し、現在は有限会社あいらんどの取締役も務めています。
特に臓器移植の分野で名を馳せ、難易度の高い手術を数多く成功させてきました。
弟の進学を支えるため、中島みゆきさんと母親が経済的に援助したエピソードは、家族の強い絆を示しています。
弟は、姉の音楽活動を静かに見守り、プライベートでは目元が似ていると指摘されるほど、姉弟の面影を共有しています。
中島さんは30歳代の頃、都内に自宅を建て、北海道から母親を呼び、同居していました。
その後、医師免許を取得し、都内の病院に就職先が決まった弟夫婦とも同居。
若い頃の苦労時代からすると幸せな暮らしをしていましたが、2010年頃に母親が自宅で転倒し車いす生活となりました。
みゆきさんは弟夫婦とともに自宅で母親の介護をしながら過ごしていましたが、2014年末に最愛の母親がこの世を去りました。
みゆきさんは、弟の子供を溺愛しているという話なので、天に召された母親を想いながら、弟夫婦と子供たちとすごされているのでしょうね。
年齢や若い頃は?
中島みゆきさんの年齢は、現在70歳代となりました。
若い頃は、大学時代にフォークソングブームの影響を受け、積極的に音楽に没頭しました。
デビュー前の1970年代初頭、札幌のライブハウスで歌い、ヤマハのポピュラーソングコンテストに挑戦していました。
内気な性格ながら、ステージでは堂々としたパフォーマンスを見せ、周囲を驚かせました。
23歳の1975年、「アザミ嬢のララバイ」でデビューし、すぐに「時代」で大ブレイクしましたが、この頃は父親の病床を看病しながらの多忙な日々でした。
デビュー前には「30歳までに結婚相手を見つけたい」と旧友に語っていたそうです。
当時の札幌では、喫茶店オーナーの友人と音楽仲間として活動し、ノートに歌詞をメモする姿が印象的でした。
20代後半は、医院の手伝いと作曲の両立で、睡眠時間を削る日々が続きました。
30代に入ると、独自の音楽世界を確立し、夜会などの舞台作品を始めて多角的な表現を追求しました。
ラジオのパーソナリティーとしての活躍もされていました。
歌声とラジオで話すときの声の高さにかなりのギャップがあります。
低めのトーンで深く広がっていくような歌声と、ラジオのトークでは、とても高めの声でお話されます。
若い頃の純粋な情熱は、今も変わらず、深い人生の洞察を歌に込めています。
年齢を重ねるごとに、声の味わいが豊かになり、ファンを魅了し続けています。
結婚は瀬尾 一三?
中島みゆきは、一度も結婚はしていないようです。
過去には同じシンガーソングライターの松山千春さんとお付き合いしていた?なんて噂もあったようです。
ともに北海道出身で、年齢も3歳差ということも身近な存在とファンは思ったのでしょうか。
この噂について松山千春さんは「もし本当に結婚していたら、今頃中島みゆきさんの付き人だっただろう」とコメントされています。
一流歌手の松山千春さんでさえ、ひれ伏したくなるような中島みゆきさんの能力の高さを感じていたのでしょう。
以前、中島さんがテレビ番組に出演した時に「チャンスを逃した」なんて自身で発言してるようですから、過去には当然そういう結婚に結びつきそうな出会いもあったのでしょうか。
数ある、中島さんの歌の中にはご自身の経験を歌ったものもあるのかもしれませんね。
中島みゆきさんの結婚相手が瀬尾一三さんではないかという噂は、長年の仕事仲間としての密接な関係から生まれたものです。
瀬尾一三さんは、1947年生まれの音楽プロデューサー、作曲家、編曲家で、中島みゆきさんの1988年以降のすべての作品を手がけています。
兵庫県出身の瀬尾さんは、ヤマハ音楽振興会で出会い、以来、音楽監督として欠かせない存在です。
代表作の「糸」や「時代」のアレンジを担当し、中島みゆきさんの楽曲に温かみと深みを加えました。
瀬尾さんは中島みゆきさんを「血のつながっていない兄妹」と表現し、親友以上の信頼関係を築いています。
プロモーションやメディア対応を瀬尾さんが担うことで、中島みゆきさんは創作に集中できる体制を整えました。
2017年のインタビューでは、瀬尾さんが「これからも中島みゆきさんの音楽を支えたい」と語り、互いのリスペクトが伝わってきます。
このパートナーシップは、結婚の憶測を呼ぶほど強い絆ですが、あくまでプロフェッショナルなものです。
中島みゆきさんのプライベートは謎に包まれていますが、それが歌の普遍性を高めているのかもしれません。
糸や縁会とは?
中島みゆきさんの「糸」は、1992年にリリースされた代表曲の一つです。
この曲は、結婚を控えた知人のために書かれたもので、通算20枚目のアルバム『EAST ASIA』に収録されました。
シンプルなメロディーと、心に染みる歌詞が特徴で、「縦の糸はあなた 横の糸は私」というフレーズは、運命的なつながりを象徴します。
元々は知人の幸せを祈るプライベートな贈り物でしたが、発売後すぐに結婚式の定番ソングとなり、数多くのアーティストにカバーされました。
2000年代に入り、ドラマやCMで使用され、世代を超えた人気を博しました。
瀬尾一三さんのアレンジにより、ストリングスが優しく寄り添うように加わり、情感を増幅させています。
中島みゆきさん自身、この曲を「縁の不思議」を描いたものと位置づけ、ライブでは観客の涙を誘う名場面を生み出しました。
一方、「縁会」とは、中島みゆきさんのコンサートシリーズのタイトルで、2012年から2013年にかけて開催された全国ツアーです。
この公演は、ファンとの「縁」をテーマに、過去のヒット曲をリクエスト形式で披露しました。
東京や大阪のホールで上演され、劇場版映像としても公開されました。
「縁会」では、「糸」や「空と君のあいだ」などの楽曲が新アレンジで蘇り、観客との一体感が話題となりました。
以降の「歌旅」や「一会」と連なるシリーズとして、中島みゆきさんのライブ史に刻まれています。
これらの作品は、人生の出会いと別れを歌う中島みゆきさんの哲学を体現しており、ファンの心に永遠の縁を結びつけています。
今回はここまでです。
これからも、中島みゆきさんの活躍を期待しています。
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