ジュディーオングの年齢や結婚は?若い頃と現在は?なに人?衣装や版画は?

女優,歌手・音楽家

もくじ

ジュディ・オングさんのプロフィール

 

ジュディ・オングさんは、1950年1月24日、台湾の台北市で翁家の長女として生まれました。

 

本名は翁倩玉です。翁倩玉は、日本語では一般的に「おうせんぎょく」と読みます。

 

 

中国語(標準語)では「ウェン・チエン・ユー」(Wēng Qiànyù)と発音され、台湾語では「オン・チェン・ギョク」(Ong Chhèng-gio̍k)となります。

 

父親は中国本土出身で、母親は台湾の方です。

 

上に兄が一人おり、職業は建築家として活躍しています。

 

幼少期の頃、ジュディ・オングさんは台北で穏やかな日々を過ごしていましたが、3歳の時に父親の仕事の都合で家族揃って日本へ移り住みました。

 

以後、東京で生活を続け、9歳の時に劇団ひまわりに入団しました。

 

当時、父親は芸能活動に反対していましたが、「学業をきちんと優先する」という条件で許諾が出たそうです。

 

小学校から中学校までは東京中華学校に通い、多文化的な環境の中で育ちました。

 

中学卒業後はアメリカンスクール・イン・ジャパンに進学し、英語教育を受けました。

 

大学では上智大学国際学部に進み、スペイン語を専攻してマスターしました。

 

母語の台湾語に加え、日本語、英語、標準中国語の4言語を自在に使いこなす語学の達人として知られています。

 

 

ジュディーオングの年齢や結婚は?

 

ジュディ・オングさんの年齢は、70歳代半ばとなっています。

 

デビューから半世紀以上が経ちますが、精力的に活動を続けています。

 

結婚については、1992年5月、42歳の時に元商社マンで美術商の鈴木洋樹さんと結ばれました。

 

結婚式は政財界や芸能界の大物約2000人を招いた盛大なもので、ジュディ・オングさんの華やかな人脈を象徴するイベントでした。

 

しかし、1998年に離婚しています。

 

結婚生活は約6年続き、子供はおりません。一時期、娘がいるという噂が流れましたが、これは誤った情報で、実際には家族を持たないままです。

 

離婚後、ジュディ・オングさんは独身を貫き、仕事と創作に集中する生活を選んでいます。

 

 

若い頃と現在は?

 

若い頃のジュディ・オングさんは、輝かしいスターとして日本中を魅了しました。

 

11歳の1961年、日米合作映画『大津波』で女優デビューを果たし、国内外で子役として注目を集めました。

 

劇団ひまわりでの訓練が基盤となり、テレビドラマや映画、舞台に次々と出演。

 

16歳の1966年に歌手としてもデビューし、シングル『星と恋したい』をリリースしました。

 

しかし、本格的なブレイクは1979年の29歳時にリリースしたシングル『魅せられて』が200万枚の大ヒットを記録し、日本レコード大賞を受賞。

 

エキゾチックな歌声と洗練されたパフォーマンスで、社会現象を巻き起こしました。

 

その年、布団のシーツがバカ売れしたそうです😅

 

この曲は今も彼女の代表作として愛されています。

 

ちなみに曲のサビの部分は

 

「Wind is blowing from the Aegean 」

 

「エーゲ海から風が吹いている。」という意味なのだそう。

 

「the Aegean Sea」が地中海の一部であるエーゲ海を指す意味合いがあるそうです。

 

また、1989年の39歳時には、ヨーロッパの音楽コンテスト・ユーロビジョン・ソング・コンテストでフランス代表として『Prends ma vie』を歌い、見事優勝。

 

国際的な名声を確立しました。

 

若い頃の写真を見ると、黒髪をなびかせ、優雅なドレス姿でステージに立つ姿が印象的です。

 

女優時代は『寺内貫太郎一家』などの人気ドラマにも出演し、多忙を極めました。

 

木版画の分野では日展会友、白日会正会員として、1983年の初入選から14回の入選を果たし、2005年には特選を受賞。

 

台湾政府からも文化親善大使や栄誉芸術家に任命されています。

 

国立台湾芸術大学の客員講師を務め、中国蘇州版画院の版画親善大使にも選ばれました。

 

2024年には、兄の翁祖模さんと初の兄妹展『藝境畫篇O2』を台北の新光三越で開き、多くのメディアから注目を集めました。

 

最近の音楽活動では、2016年から続くジャズライブ『Route66』を定期的に行い、2018年に新曲『ほほえみをありがとう』をリリース。

 

JAZZアルバム『Always』も好評です。

 

また、社会貢献として、ワールドビジョン・ジャパンの親善大使、ポリオ根絶大使、介助犬サポート大使を務め、開発途上国の子どもたちを支援しています。

 

2022年には外務省から外務大臣表彰を受け、台湾と日本の友好親善に貢献した功績を認められました。

 

現在の写真では、穏やかな笑顔が印象的で、若い頃の妖艶さから、落ち着いた大人の風格へ移行した様子がうかがえます。

 

芸能活動の合間を縫って創作に没頭する姿は、年齢を感じさせません。

 

 

なに人?

 

前述の項目でお伝えした経歴をみると、彼女の表現・活動には、生まれた台湾、子どもの頃過ごした日本、活動拠点の一つアメリカの「3つの文化」を体現しています。

 

人種がどうあれ、各国の文化を理解されている人物といえ、「なに人」であるかはファンにとってはあまり関係ありませんよね。

 

来日70年を迎えた2023年、テレビ番組で「今は普通の人間」と笑顔で語る姿が、謙虚さと深みを物語っています。

 

台湾生まれのルーツを持ちながら、日本で育ち、国際的に活躍するマルチタレント。

 

ジュディ・オングさんは、境界を超えたクリエイターとして、後進に影響を与え続けています。

 

衣装や版画は?

 

ジュディ・オングさんの衣装は、彼女のステージを象徴する重要な要素です。

 

特に『魅せられて』のプロモーションで着用した白いシフォンドレスは、伝説的です。

 

肩を露わにした優雅なデザインで、流れるような動きが歌の情感を強調し、当時のファッションアイコンとなりました。

 

当初は袖の短いものを想定していましたが、紅白歌合戦の出番で袖を長く伸ばすアレンジを加え、独特のドラマチックさを生み出しました。

 

1970年代のディスコブームを反映したキラキラとしたアクセサリーや、オリエンタルな刺繍が入った衣装も特徴的。

 

女優時代は、時代劇の華やかな着物姿から、現代劇の洗練されたスーツまで幅広くこなし、多様な役柄を体現しました。

 

ユーロビジョン優勝時の赤いイブニングドレスも、情熱的なパフォーマンスを際立たせ、ヨーロッパの視聴者を魅了しました。

 

現在は、版画展のトークイベントで和服を着用し、伝統美をアピール。

 

衣装一つで、彼女のエキゾチックで洗練されたイメージが完成します。

 

版画については、ジュディ・オングさんのもう一つの顔です。

 

25歳の1975年頃、棟方志功さんの作品に触発され、木版画制作を始めました。

 

芸能の多忙な合間を縫って独学で学び、雅号「倩玉」を用いて活動。

 

花と日本家屋をモチーフにした大胆な構図と力強い線が魅力で、精巧な彫りと色彩が融合した作品群は、国内外で高く評価されています。

 

代表作の一つが2005年の『紅楼依緑』で、第37回日展で特選を受賞。

 

赤い楼閣と緑の庭園が幻想的に描かれ、平等院に奉納された『鳳凰迎祥』(2003年)も有名です。

 

これは鳳凰が幸運を運ぶ様子を象徴し、京都の伝統産業の日制定記念ポスターとしても使用されました。

 

他に、『祇園白川』(2004年)では京都の風情を、『桂林水遊』(2011年)では中国の山水を表現。

 

初期の『冬の陽』(1983年)から最新の『恩光 櫛田神社』(2015年)まで、65点以上の作品を制作し、全国巡回展を繰り返しています。

 

1998年にはドイツのマイセン磁器が『カトレヤ』をモチーフに陶版画を発表するなど、国際コラボも。2023年の台南展では、兄の建築作品と並べて展示し、家族の絆をテーマにした新作も披露されました。

 

ジュディ・オングさんの版画は、歌うようなリズム感があり、見る者に静かな感動を与えます。

 

こうした創作は、彼女の人生哲学—「無限の可能性」を体現したものです。

 

ジュディ・オングさんの歩みは、台湾の風土、日本的美意識、国際的な視野が交錯する豊かな物語です。

 

今回はここまでです。
これからも、ジュディ・オングさんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!

記事のポチっと拡散感謝です~(*´ω`*)