細野豪志と山本モナいつ?嫁と子供は?若い頃や現在は?高市早苗とは?
もくじ
細野豪志氏のプロフィール
細野豪志氏は、1971年8月21日、京都府綾部市で生まれました。
滋賀県近江八幡市で幼少期を過ごし、近江兄弟社学園幼稚園を卒園した後、近江兄弟社小学校、近江兄弟社中学校を卒業しています。

身長は182cmと高身長。
高校は滋賀県立彦根東高等学校で、1990年に卒業、その後、京都大学法学部に進学し、1995年に卒業しています。
大学時代は佐藤幸治教授のゼミナールに所属し、法学の基礎を深めました。
父親は農家からサラリーマンに転身されたそうなので、世襲議員ではありません。
幼少期の家庭のエピソードとしては、小学校の頃に父親が突然テレビを撤去したため、家族で本を読んだり外で遊んだりする時間が多かったそうです。
このような環境が、細野豪志氏の好奇心を育んだのかもしれません。
卒業後、三和総合研究所で研究員として勤務し、1999年から衆議院議員の公設第二秘書を務め、政治の世界に足を踏み入れました。
現在は自由民主党所属の衆議院議員で、静岡5区から連続で当選を果たしています。
細野豪志と山本モナいつ?
細野豪志氏と山本モナさんの出会いは、2006年頃に遡ります。
当時、細野豪志氏は民主党の衆議院議員として環境大臣政務官を務めており、山本モナさんはTBSのニュース番組『筑紫哲也 NEWS23』のキャスターとして活躍していました。
二人は仕事の場で知り合い、プライベートな関係に発展したとされています。
2006年10月、週刊誌が二人の路上での親密な様子を報じ、大きな話題となりました。
この報道により、細野豪志氏は民主党内の役職を辞任し、謝罪の意を表明しました。
山本モナさんもキャスターを降板せざるを得なくなり、放送業界での活動が一時的に止まりました。
この出来事は、細野豪志氏の政治キャリアに影を落としましたが、彼は選挙区で支持者を回り、信頼回復に努めました。
一方の山本モナさんは新たな道を歩み始め、2010年に一般男性と結婚し、3人の子どもを授かりました。
子育てに専念しつつ、40代に入ってから法曹界への挑戦を決意。
ロースクールに入学し、司法試験の勉強に取り組みました。
2025年11月13日、49歳で令和7年の司法試験に合格したことを自身のインスタグラムで報告しました。
ロースクール受験から数えて5年の歳月を費やし、2度目の挑戦で実を結んだこの合格は、子育てと並行した努力の賜物です。
山本モナさんは「やればできる」という言葉を実感したと振り返っています。
この転身は、当時のメディアスキャンダルから立ち直り、自己実現を追求し成功した女性として多くの人から称賛の声が寄せられています。
嫁と子供は?
細野豪志氏は、1996年に結婚しました。
二人の出会いは、1995年の阪神・淡路大震災がきっかけでした。
当時細野氏は当時京都大学4年生で、震災直後に2カ月ほど被災地神戸でボランティアに参加。
そこで奥様と知り合いました。
この経験は、細野氏の政治家への道を決意づけるきっかけにもなったそうです。
そして、出会い、交際から1年ほど1996年に結婚。
ボランティアを通じてのご縁だったのですね。
奥様は関西出身で、普段奥様は公の場にあまり姿を見せませんが、2006年のスキャンダル時には、奥様も選挙区を回り、地元有権者へのお詫びを徹底的に行いました。
このような内助の功が、細野豪志氏の政界復帰を後押ししたと言われています。
子供については、長女が一人います。
長女は現在大学生で、細野豪志氏の政治観を鋭く質問するほど、父親の仕事に興味を持っているようです。
一方、悲しい出来事として、2013年に生まれたばかりの次女・燈さんが亡くなりました。
次女の燈さんは、2012年12月21日に生まれた直後から、わずか637グラムの超低出生体重児としてNICU(新生児集中治療室)で懸命の治療を受けていました。
担当医からは「最初の1週間を乗り切れば育つ可能性がある」と告げられ、家族一同がその日々を指折り数えて待ち望みました。
しかし、生後7日目を過ぎた9日目頃に容態が急変し、10日目に息を引き取ってしまいました。
このような超低体重児のケースでは、臓器の未熟さや感染症などの合併症が命を脅かすことが多く、燈さんの場合もそのような要因が重なったものとされています。
細野豪志氏はこの喪失を胸に、以降、子どもたちの医療ケアや貧困・虐待対策に深く取り組むようになりました。
例えば、低出生体重児の就学時期の柔軟化を国会で訴え、文部科学省の事務連絡の発出に寄与するなど、自身の経験が子ども政策への取り組みや、子育て支援の重要性を強調する原動力となっています。
若い頃や現在は?
細野豪志氏の若い頃は、研究者としての知的探求心が際立っていました。
京都大学在学中は、法学の勉強に没頭し、ゼミでの議論を通じて社会問題への関心を高めました。
卒業後の三和総合研究所時代は、経済政策の分析に携わり、データに基づく政策立案の基礎を築きました。
1999年に政界入りしてからは、2000年の衆議院選挙で初当選を果たし、民主党の若手ホープとして注目を集めました。
当時の細野豪志氏は、環境問題に強い関心を持ち、持続可能な社会の実現を訴えていました。
また、学生時代に培った行動力で、地元静岡の課題に積極的に取り組み、支持を広げました。
現在、細野豪志氏は54歳で、自民党の政務調査会長代理として党内の政策立案を担っています。
2024年の衆議院選挙では、静岡5区から得票率63パーセント超で当選し、安定した地盤を維持しました。
主な活動分野は、安全保障、原子力・地熱エネルギーの推進、子ども政策です。
安全保障では、憲法改正に前向きで、自衛隊の明記や緊急事態条項の新設を支持しています。
一方、選択的夫婦別姓制度や同性婚の導入には賛成の立場を取っており、多様な価値観を尊重する姿勢を示しています。
エネルギー政策では、福島原発事故の経験から、再発防止と再生可能エネルギーのバランスを重視。地熱発電の拡大を提唱し、日本の実情に合った脱炭素社会を目指しています。
また、子ども政策では、子育て世代の負担軽減を訴え、待機児童ゼロの実現や教育費の支援を推進しています。
プライベートでは、落語を愛好し、筋トレを日課にしています。
100キロのバーベルを上げるほどの体力で、寄席通いを楽しむ姿は、政策の合間のリフレッシュ法です。
2025年現在、細野豪志氏は自民党内の改革派として、党の多党化時代への対応を議論しており、若手議員の育成にも力を入れています。
このように、若い頃の情熱を今も失わず、多角的な活動を続けています。
高市早苗とは?
細野豪志氏と高市早苗氏の関係は、自民党内の政策議論を通じて深まっています。
高市早苗氏は1961年生まれのベテラン政治家で、2025年の自民党総裁選を経て、第104代内閣総理大臣に就任しました。
政権発足後、細野豪志氏はnoteで所信表明演説を分析し、女性総理の優先順位付けや若返った閣僚陣の性格を高く評価しているようです。
過去を振り返ると、民主党時代の高市早苗氏が福島原発事故の死亡者数に関する発言で批判された際、細野豪志氏は民主党幹事長として撤回を求めました。
しかし、政界の変遷を経て自民党で共闘する今、二人は保守改革の旗手として連携を強めています。
高市政権下で、細野豪志氏は安全保障委員会や憲法審査会で活躍し、高市氏の経済安保政策を補完する役割を果たしています。
例えば、原子力発電の再稼働推進では共通の視点を共有し、地政学的リスクへの対応を議論しています。
また、総裁選後の党内一枚岩化を促す声として、細野豪志氏は高市氏の「疑似政権交代」を避けるリーダーシップを支持しているとのことです。
今回はここまでです。
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