生瀬勝久の嫁と子どもは?兄は?なぜ改名?バイクで事故!松本潤とは?

2025年10月16日俳優

もくじ

生瀬勝久さんのプロフィール

 

生瀬勝久さんは、1960年10月13日、兵庫県西宮市で生まれた俳優、タレント、司会者です。

 

甲子園球場の近くで幼少期を過ごし、小学校3年生の頃に同じ西宮市の生瀬地区へ引っ越しました。

 

 

この引っ越しを機に、西宮市立春風小学校から、生瀬小学校へ転校しています。

 

生瀬小学校では、後に女優として活躍する藤原紀香さんも同じ学校に通っていたそうです。

 

当時、生瀬さんは転校生として新しい環境に馴染むのに苦労したものの、活発な性格で周囲とすぐに打ち解けました。

 

家族の影響も大きく、母親は小学校教師を務め、後に市議会議員として教育問題に取り組むようになりました。

 

こうした家庭環境が、生瀬さんのリーダーシップを育んだのかもしれません。

 

学生時代は、文武両道のエリートとして知られています。

 

小学校では児童会長を務め、中学校では生徒会会長を経験しました。

 

また、吹奏楽部に所属し、サックスを担当するなど音楽にも親しんでいました。

 

スポーツ面では駅伝の選手として活躍し、チームの中心メンバーでした。

 

高校は西宮市立西宮高等学校へ進学し、そこで宝塚ファミリーランドでのアルバイトを始めました。

 

ジュースを売る仕事を通じて、人と接する楽しさを学び、将来の俳優業の基盤となったようです。

 

大学は同志社大学文学部社会学科に1980年に入学。在学中の1983年に劇団「そとばこまち」に入団し、本格的に演劇の世界へ踏み込みました。

 

1986年に同学科を卒業する頃には、すでに舞台俳優としての道を歩み始めていました。

 

大学4年生の頃、親の知り合いのリース会社から内定を得ていましたが、演劇への情熱が勝り、それを断念して俳優の道を選びました。

 

こうした学生時代の多角的な活動が、生瀬さんの多才さを形成したと言えるでしょう。

 

 

生瀬勝久さんの嫁と子どもは?

 

妻は堀本陽子さんで、1972年6月18日生まれのモデル兼ヨガインストラクターです。

 

生瀬さんより12歳年下の陽子さんは、若々しく美しい容姿で知られ、夫婦の年齢差を感じさせないほどお似合いの二人です。

 

二人の出会いは、陽子さんが16歳の高校生だった頃に遡ります。

 

生瀬さんが出演したドラマを見てファンになり、感想を手紙に綴って送ったそうです。その手紙には、なんと電話番号も記されていました。

 

生瀬さんは珍しい出来事に興味を持ち、連絡を取ったところから交際がスタート。

 

数年後、1998年頃に結婚に至りました。

 

当時、生瀬さんは37歳、陽子さんは24歳という年齢差婚でしたが、互いの価値観がぴったり合ったため、自然な流れだったようです。

 

夫婦の絆は今も深く、陽子さんは生瀬さんの仕事の忙しさを支えています。

 

ヨガのインストラクターとして活躍する陽子さんは、健康的なライフスタイルを家族に広め、生瀬さんも一緒にヨガに取り組む姿が想像されます。

 

プライベートでは、釣りやゴルフを趣味とする生瀬さんを、陽子さんが優しく見守る関係性がうかがえます。

 

子どもについては、2007年に誕生の息子さんが一人います。

 

生瀬さんは息子さんの教育に熱心で、中学受験を経験させたそうです。

 

家族三人で過ごす日常は、仕事の合間に釣りや旅行を楽しむ穏やかなもの。

 

生瀬さんはインタビューで、家族を大切に思う気持ちを度々語っており、息子さんの成長を心から喜んでいます。

 

こうしたプライベートな一面が、生瀬さんの人間味をより魅力的にしています。

 

兄は?

 

生瀬勝久さんの家族構成は、父親、母親、兄、そして本人の四人家族です。

 

実家は兵庫県西宮市の宝塚市寄りの自然豊かな場所にあり、幼少期の思い出が詰まった土地です。

 

特に兄さんは、生瀬さんより2歳年上で、家族の長男として頼れる存在でした。

 

兄さんもまた、優秀な人物で、小学校の児童会長や中学校の生徒会長を務めた経験があります。

 

生瀬さんがリーダー役を継いだのも、兄さんの影響が大きいようです。

 

兄さんはサラリーマンとして働いており、生瀬さんの俳優業が兄さんの職場での話題になり、営業にプラスになったというほのぼのエピソードもみられました。

 

 

なぜ改名?

 

生瀬勝久さんの芸能界入り当初の芸名は、「槍魔栗三助(やりまくりさんすけ)」でした。

 

この名前は、学生時代に漫才コンビを組んでいた頃、相方が考えたもので、インパクトを狙ったユニークな響きです。

 

生瀬さんは真面目な性格ゆえに、人生の転機としてこの芸名を採用し、30歳まで使用しました。

 

しかし、1989年頃のNHK連続テレビ小説への出演を機に、改名の決断を迫られます。

 

NHK側から「その名前では放送に適さない」と指摘されたため、本名に戻すことになりました。

 

さらに、母親が市議会議員として教育問題を扱っていたことも、改名の大きな理由です。

 

母親の公職に悪影響を及ぼさないよう配慮した結果、母親から提案された「生瀬凡太郎」や「生瀬伯柳」などの名前を却下し、最終的に本名の「生瀬勝久」に落ち着きました。

 

この選択は、生瀬さんにとって正解だったようです。以降、本名で活動を続け、多様な役柄をこなす基盤となりました。

 

改名は一見シンプルですが、家族への思いやりが込められたエピソードとして、生瀬さんの人柄を表しています。

 

バイクで事故?

 

生瀬勝久さんの人生に大きな転機をもたらしたのが、20歳の頃のバイク事故です。

 

大学3年生の夏、同志社大学から山陰地方へ一人でバイクツーリングに出かけました。

 

カーブを曲がり切れず対向車に衝突してしまい、車の右前輪が腹の上を通過するほどの重傷を負い、腰椎の圧迫性骨折を起こしました。

 

生死の境を彷徨い、1ヶ月間の入院生活を強いられました。

 

事故直後、母親からは「あんたは20歳の時に死んだ子や」と厳しい言葉をかけられましたが、それが逆に生瀬さんの闘志を燃やしました。

 

この事故は、単なる不運ではなく、人生観を変える出来事となりました。

 

それまで優等生として過ごしてきた生瀬さんは、死の淵で「本当の自分」を問い直し、演劇への情熱を再確認。

 

劇団入団のきっかけにもつながりました。

 

現在もバイクの思い出は特別で、時折ツーリングの楽しさを振り返りますが、安全第一の教訓として語っています。

 

こうした壮絶な経験が、生瀬さんの演技に深みを加えているのかもしれません。

 

 

松本潤さんとは?

 

生瀬勝久さんと松本潤さんの関係は、共演者として長年にわたる縁があります。

 

初めての共演は2002年のドラマ「ごくせん」第1シリーズで、生瀬さんは教師役、松本さんは生徒役を演じました。

 

当時、松本さんは嵐としてデビューしたばかりの若手でしたが、生瀬さんのベテランらしい演技に刺激を受けたそうです。

 

二人の掛け合いは視聴者にも好評で、ドラマの名シーンを飾りました。

 

その後、23年ぶりに2025年のTBS日曜劇場「19番目のカルテ」で再共演します。

 

松本さんが主演の医師役に対し、生瀬さんは病院の院長・北野栄吉役を務め、息の合った芝居が話題になりました。

 

松本さんはこの再会を「恐ろしい」と驚きを隠せませんでしたが、互いの成長を喜び合う姿が印象的です。

 

こうしたキャリアを通じたつながりが、二人の俳優としての魅力を引き立てています。

 

生瀬勝久さんの人生は、家族の支え、事故の試練、改名の決断、そして共演の喜びが織りなす豊かな物語です。

 

これからも、多彩な活躍が期待されます。

 

今回はここまでです。
これからも、生瀬勝久さんの活躍を期待しています。
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