仁支川峰子現在住まいは?ヘア・ワインとは?元夫や火野正平とは?なぜ改名?
もくじ
仁支川峰子さんのプロフィール
仁支川峰子さんは、1958年5月23日、福岡県田川郡赤村で生まれました。
福岡の自然豊かな田舎町で育ち、本名は福田峰子さんです。

9人きょうだいの末っ子として誕生しましたが、1歳半の頃に実母に捨てられ、母親の親の養子となりました。
実母は姉として存在を伝えられていましたが、小学6年生の時に実母が再婚する時に、本当の話を聞かされたそうです。
しかし、小学校1年生の頃に何かのきっかけで、自分の母親であることに気が付いていたのだそうです。
幼少期は病弱で栄養失調気味で、5歳になるまで自分の足で歩くのも難しかったそう。
波乱万丈な幼少期を過ごされていたのですね。
学歴については、代々木高校を中退。
1973年、15歳のときに第3回全日本歌謡コンテストで優勝し、翌1974年にシングル「あなたにあげる」でデビューを果たしました。
この曲は大ヒットし、日本歌謡大賞最優秀新人賞や日本レコード大賞新人賞を受賞。
NHK紅白歌合戦にも1975年から4年連続で出場するなど、演歌界の新星として一躍注目を集めました。
学生時代は歌うことが大好きで、近所の集まりや学校行事で積極的に歌を披露。
近所の人々から「歌が上手い子」と評判になり、将来の歌手の道を予感させる存在でした。
歌手デビュー後、女優としても活躍し、時代劇「桃太郎侍」や映画「吉原炎上」に出演。
歌と演技の両輪でキャリアを築き、現在も舞台やテレビで精力的に活動を続けています。
所属事務所は個人事務所のMine Fantasyで、趣味は観葉植物の手入れ、料理、釣りだそうです。
現在も、波瀾万丈な人生をポジティブに生きる仁支川峰子さんの魅力は、ファンを魅了し続けています。
仁支川峰子現在住まいは?
仁支川峰子さんの現在の住まいは、東京都内の賃貸マンションです。
以前は栃木県那須町に実家のような拠点がありましたが、芸能活動の中心が東京に移ったため、長年首都圏で暮らしています。
特に、1998年に新築したばかりの自宅が集中豪雨で流失するという大惨事に見舞われました。
当時、仁支川峰子さんは念願のマイホームを建て、引っ越しからわずか1カ月で那須町の家は川の氾濫により水没。
家財道具や着物など40年分の思い出がほとんど失われ、心身ともに大きなショックを受けました。
それでも諦めず、同じ場所に再建を決意。
流されないよう土台を高くし、周囲に堤防を設けるなどの工夫を凝らして家を立て直しました。
この家は仁支川峰子さんにとって、幼少期の貧しさから這い上がった象徴のような存在でした。
しかし、数年後にはその家を売却。現在は都内の賃貸に住んでいます。
この選択の背景には、おひとりさまとしての現実的な判断があります。
仁支川峰子さんは子どもがいないため、大きな持ち家を維持するのは負担が大きいと感じたそうです。
管理の手間や老後のことを考え、賃貸を選んだと本人が明かしています。
都内のマンションは、静かな住宅街に位置し、仁支川峰子さんの趣味である観葉植物を育てるスペースも十分。
釣り好きの彼女は、休日になると近郊の河川や海へ出かけ、ゆったりとした時間を過ごしています。
また、過去の豪雨被害から学んだ教訓として、住まいの耐水性を重視するようになり、現在の住居も洪水リスクの低い場所を選んだそうです。
このエピソードは、仁支川峰子さんの人生のタフネスを象徴するもので、ファンからは「峰子さんらしい」との声が上がっています。
都内生活は、仕事のしやすさと医療施設の近さも魅力で、仁支川峰子さんは「賃貸だからこそ、自由に動ける」と前向きに語っています。
ヘア・ワインとは?
仁支川峰子さんの「ヘア」に関するエピソードは、1990年代の写真集活動に遡ります。
当時、女優としての表現をさらに深めたいという思いから、写真集「PRIVATE」を1993年に発表しました。
この作品は、仁支川峰子さんの大胆で自然な美しさを捉えたもので、出版当時は大きな話題を呼びました。
彼女自身、撮影を通じて女性の内面的な強さを表現したかったと振り返っており、人生の喜びや苦しみを体現した一枚一枚にこだわりました。
続いて1997年には「Private II」をリリースし、こちらは5万部を超えるヒットに。
ファッションや照明の工夫が施され、前作よりも洗練されたイメージが好評でした。
これらの写真集は、仁支川峰子さんのキャリアに新しい風を吹き込み、演歌歌手からマルチなアーティストへの転身を後押ししたそうです。
また、映画「吉原炎上」での役柄では、髪を振り乱した激しい演技が印象的でした。
花魁の小花を演じたシーンで、髪の乱れが感情の高ぶりを強調し、共演者や監督から絶賛されました。
このようなヘアの表現は、仁支川峰子さんの女優魂を象徴するもので、プライベートでも髪の手入れを大切にしています。
毎日のシャンプーやトリートメントに時間をかけ、年齢を感じさせないツヤのある髪を保つ工夫を欠かしません。
時には、友人との集まりで昔の写真集の話を振り返り、「あの頃は勇気を出してよかった」と笑顔で語るそうです。
このヘア関連の挑戦は、仁支川峰子さんのタフで自由奔放なパーソナリティを物語る貴重な側面です。
そして、ワインについてですが、仁支川峰子さんは、白ワインをこよなく愛するお酒好きとして知られています。
特に、辛口のイタリア産白ワインを好み、仕事の合間やプライベートでゆったりと味わうのが習慣です。
テレビロケでは、スタッフが用意した白ワインをグラスいっぱいに注いでもらい、道中で一気飲みする豪快ぶりが話題に。
ある番組では、池袋のホストクラブを7軒回るロケで、移動中に何杯もワインを飲み干し、共演者の有吉弘行さんやマツコ・デラックスさんを驚かせました。
彼女曰く、「ワインは体を温めてくれるから、疲れが吹き飛ぶんです」とのこと。
アルコールの度数を気にせず、純粋に楽しむ姿勢が仁支川峰子さんの魅力です。
家では控えめですが、特別な日は手料理と合わせてワインを開けます。
例えば、蟹のサラダやじゃがいもとセロリの炒め物を肴に、半年ぶりの家飲みでグラスを傾ける姿が公式サイトで紹介されています。
炒め物にはコンソメや牛乳を加え、オリーブオイルで仕上げるオリジナルレシピで、ワインの酸味を引き立てる工夫が光ります。
健康を意識して肝臓のチェックを定期的に行い、飲み過ぎを自制する一面も。
友人との新年会や花見では、ワインを振る舞いながら昔話を弾ませ、毎回周囲を和ませます。
このワイン愛は、福岡育ちの豪快さと大人になった今のリラックス術が融合したもので、SNSではグラスの写真をアップし、フォロワーから「峰子さん流、憧れます」とのコメントが寄せられています。
仁支川峰子さんのワインエピソードは、日常の小さな贅沢を教えてくれるものです。
元夫や火野正平とは?
仁支川峰子さんの元夫は、7歳年下で、隠岐島在住の後鳥羽上皇の墓守りで町議会議員でした。
出会いは、仁支川峰子さんが撮影で隠岐島に行き、景観のすばらしさや、島の人の優しさに触れ、社員旅行として再び訪れることに。
その際に観光案内などして下さった人が、後に夫となった方なのだそう。
結婚を決めたのは、出会ってから3ヶ月。
そのうち、16日ほどしか一緒に過ごしていなかったそうで、当時の年齢は43歳でのスピード結婚でした。
しかし、夫はお酒が入ると、親兄弟にも取っ組み合いのケンカをするような方だったことが判明。
また、不倫発覚や生活費も仁支川峰子さんが負担することがあったのだそう。
お相手の母親が、仁支川峰子さんが39歳の頃に亡くなった育ての母の面影と重なり、夫が暴れていても「ごめんね。ごめんね。」と頭下げる姿を見て、義母を守らなくてはと思い耐えていたそう。
しかし、結婚6年目に義母が他界。一周忌を終え、離婚を決意。
離婚調停を経て、2009年に離婚に至りましたが、精神的苦痛により顔面神経痛となってしまったそうです。
仁支川峰子さんは「結婚時の約束で、浮気したら離婚だった」と語っています。
再婚については、
あんな結婚生活してきたら2回目なんて考えませんよ。
また自由に恋愛しようとも思えないくらい。
威張って言うことじゃないですけど、離婚後は誰とも付き合っていません。
だからといって、「絶対一人で生きていく!」ということでもない。
と、コメントされています。
2024年には、お笑いユニット「アルコ&ピース」の平子祐希さんと仲の良いロケなども見られ、再婚にこだわらなくても良いのかもしれませんね。
一方、火野正平さんとは、仁支川峰子さんが23歳の頃に約半年間の不倫交際があったといいます。
火野正平さんは当時、モテ男として知られ、仁支川峰子さんは彼の「7番目の愛人」と呼ばれました。
出会いはドラマの打ち上げで、一緒に飲み明かした後、富士山近くのドライブインでサイン会をした際にマスコミに撮られスキャンダルに発展。
その後激しい恋の末に自然消滅。
火野正平さんは2024年11月14日に75歳で死去されましたが、生前は仁支川峰子さんとは良好な関係を保ち、互いの近況を気にかける仲だったといいます。
なぜ改名?
仁支川峰子さんが2009年に「西川峰子」から「仁支川峰子」に改名した理由は、旧名前の印象が気に入らなかったからなのだそうです。
デビュー以来30年以上「西川峰子」として活動してきましたが、「西川」の4文字がカクカクとした硬いイメージで、自分にしっくりこなかったそうです。
改名のタイミングは、離婚直後。人生の転機を迎え、新たなスタートを切るために決断しました。
「仁支川」は、柔らかな曲線を描く文字が仁支川峰子さんの優しい性格を表し、芸名としてぴったりだと感じたそうです。
この変更は、事務所やファンに事前相談し、姓名判断も受けたそう。
しかし、改名後の仁支川峰子さんは、甲状腺乳頭がんを発症し、手術で声帯の一部を失う試練を経験。
声を張るのが難しくなりました。
改名後の翌年にがんがみつかるなど、姓名判断を受けて改名したからといって、必ずしも両運ばかりとなるわけではないようですね…。
現在も「仁支川峰子」として、舞台「悪い芝居」などに出演し、新たな魅力を発揮しています。
仁支川峰子さんの人生は、歌と演技、そして数々の試練を通じて輝きを増しています。これからも彼女の活躍に期待が高まります。
今回はここまでです。
これからも、仁支川峰子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!
記事のポチっと拡散感謝です~(*´ω`*)












ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません