飯星景子若い頃や現在は?高市早苗や蓮舫とは?統一教会の合同結婚式や脱会は?父は飯干晃一!
もくじ
飯星景子さんのプロフィール
飯星景子さんは、1963年2月23日生まれのタレント、作家、コメンテーターです。
出身は大阪府高槻市で、血液型はA型、身長は164センチです。
学歴は追手門学院大手前高校を卒業後、桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻を1984年に修了しています。
追手門学院大手前高校卒業された主な有名人というと、古くはアナウンサーとして活躍の福留功男さん、近年では、女優の黒木華さんや、プロサッカー選手の柿谷曜一朗選手が卒業されています。
飯星景子さんは、高校では演劇部に所属。
1981年の演劇コンクールでは全国大会まで残り、最優秀賞を受賞。
飯星景子さん自身もその作品の中で、一人で4役を演じ切るなどで、個人演技賞を受賞したそうです。
4役のセリフを覚えたり、演技分けたりすることは大変だったことでしょう。
学生の頃から演劇の才能があふれていたのですね。
飯星景子若い頃や現在は?
飯星景子さんの若い頃は、テレビ業界での活躍が目立ちました。
1984年に大学を卒業した直後、テレビ朝日の番組「ウイークエンドシアター」で映画解説者を務め、わずか3年間で150本以上の作品を紹介しています。
この時期は、映画への情熱を存分に発揮した時代で、視聴者から高い評価を得ました。
タレントとして日本テレビの「ザ・ワイド」やTBSの「怪傑熟女 心配ご無用」などのバラエティ番組にも出演し、多彩なキャラクターで人気を博しています。
また、エッセイストとしても短編小説や著書を多数出版しており、仕事を通じて得た経験を文筆に活かしてきました。
現在、飯星景子さんは62歳を迎え、変わらずメディアで活躍しています。
コメンテーターとしてテレビやラジオに出演し、鋭いコメントで知られています。
特に、アジアのアクション映画に造詣が深く、香港映画の専門家としてイベントやトークショーに招かれることが多いです。
ドニー・イェンさんの熱狂的なファンで、彼の出演作のグッズをすべて集めているほどです。
将来の夢として、アクション映画の監督を志しており、現場の臨場感を自身の目で確かめたいと語っています。
私生活では、1998年にコンピュータ技術者の男性と結婚しましたが、翌年1999年に離婚し、現在は独身です。
高市早苗や蓮舫とは?
飯星景子さんは、高市早苗さんや蓮舫さんと、1990年代初頭のテレビ番組で共演した縁があります。
具体的には、テレビ朝日の深夜番組「こだわりTV PRE☆STAGE」(通称プレステージ)で、水曜日のメイン司会を飯星景子さんが務め、高市早苗さんと蓮舫さんがアシスタントとして両脇を固める布陣でした。
この番組はバブル期の若者向けバラエティで、1991年頃に放送され、三人は毎週のように顔を合わせていました。
当時の高市早苗さんは29歳で、髪を高く盛ったバブリーなスタイルが特徴的でした。
一方、蓮舫さんは新進気鋭のキャスターとして参加し、番組内で活発に意見を交わしていました。
この共演を通じて、飯星景子さんと蓮舫さんの間には姉妹のような親しみが生まれました。
蓮舫さんは飯星景子さんを「姉貴分」と慕い、番組外でもアドバイスを求めることがあったそうです。
一方、高市早苗さんとは番組内の業務的な関係が主で、プライベートでの深い交流はほとんどなかったとされています。
それでも、三人が並んで司会を務める姿は、当時の視聴者に鮮烈な印象を残しました。
後に政治家として活躍する高市早苗さんと蓮舫さんが、こんなに近くで共演していたという点は、興味深いエピソードです。
現在も、こうした過去のつながりが時折メディアで話題に上ります。
統一教会の合同結婚式や脱会は?
2022年7月、元総理大臣の安倍晋三氏が銃撃され、この世を去るというショッキングな事件が起こりました。
容疑者として捕まった男性の供述として、男性の母親が自身や祖父の財産など多額のお金を統一教会(2015年に「世界平和統一家庭連合」という名称に変更)に渡していたことで、家庭が崩壊。
統一教会のイベントに安倍晋三氏が祝福の挨拶として、ビデオレターのような形で参加するなど、統一教会と安倍晋三氏につながりがあると感じ、恨みを募らせ銃撃に至ったという主旨の話をしていたそうです。
この銃撃事件により、統一教会は再び注目を集め、過去に入信の経歴のある飯星景子さんの名前も急浮上しました。
飯星景子さんは、1992年に旧統一教会に入信しました。
きっかけは、長年仕事で付き合っていたスタイリストさんが信者だったことです。
このスタイリストさんは、信頼できる人物として飯星景子さんに教団の教えを紹介し、長い間仕事で築いた絆から自然と興味を持ったそうです。
入信当初は、教団の教えが「他の人では得られない安心感」を与えてくれましたと振り返っています。
合同結婚式については、飯星景子さんは参加を希望していましたが、実現しませんでした。
1992年6月に教団の「祝福講義」を受講し、8月25日にソウルで開催された合同結婚式への参加を検討していましたが、入信から日が浅かったため、条件を満たせず断念しています。
この式は、数千組のカップルが一堂に会する大規模なもので、当時の教団の象徴的なイベントでした。
飯星景子さんの場合、参加に至らなかったことが、後の脱会プロセスに影響を与えた側面もあります。
入信が公になると、周囲の反応が厳しくなり、家族との対立が深まりました。
1991年の夏ごろから髪を短くしたり、改名したり、仕事をどんどん降板し、お世話になった事務所を退所。
娘の変化に気づいた父親が問いただしたところ、統一教会に関わっており、信仰の一つに「イサク献祭」というものがあり、自分の大切にしているものを捨てることが重要と父に告げたそうです。
父親に勘当されても渡米し、宗教活動を続けていましたが、1992年の10月に父親は記者会見を開きました。
そこから脱会まで、家族の執念深い努力によって成し遂げられました。
詳細は、次の項目でお伝えしますね。
父は飯干晃一!
飯星景子さんの父、飯干晃一さんは、1924年6月2日生まれの著名な作家です。
元読売新聞社会部記者で、反社会集団に関するノンフィクション作家としても知られ、特に『仁義なき戦い』の原作者として映画史に名を残しています。
ジャーナリストとしての鋭い洞察力で数々の社会問題を追及してきました。
娘の飯星景子さんを「才色兼備で素直、優しい性格」と評するほど、家族愛が深かったです。
飯干晃一さんの最大の闘いは、娘の統一教会脱会でした。
1992年の入信後、教団の影響で家族との連絡が途絶えがちになったため、父の飯干晃一さんが中心となって奪還作戦を展開します。
即座に家族会議を開き、奪還の指揮を執ります。
1992年10月には記者会見を開き、教会側を公に非難する「宣戦布告」を行いました。
記者会見中には時に涙を流しながら「娘が心の飢えを持っていたのを見抜けなかったのが残念」と語る場面もありました。
「戦いに勝つ自信はありますか?」という記者の質問には、
「もちろんですよ。当然の話です。統一教会のすべてを勉強し説得します。私は残りの半生をかけても統一教会と闘います。景子が戻ってきても闘い続ける。(娘には)ドアは開かれている。」
という強いメッセージを伝えました。
この会見では、娘の心の飢えを見抜けなかった自責の念を涙ながらに語り、残りの人生を賭けて闘う決意を表明し、教会の洗脳的手法を詳細に批判し、世論を味方につけました。
家族は専門家に相談し、説得のための資料を集め、時には教団施設の前で待機するなど、壮絶なバトルを繰り広げました。
父親が自分のために記者会見を開いたことを知人から聞き、急遽帰国し、父親から説得を受けました。
しかし、まだ飯星景子さんは教会からのマインドコントロールが解けておらず、さらには自身がその宗教を選んだというプライドも邪魔して、父親の話が心の奥底まで届きません。
マインドコントロールについて、飯星景子さんは以下のように語っています。
「スポイトで一滴ずつ赤い染料を落とします。今日一滴入れただけでは色は変わりません。では1か月後はどうですか?少しピンクかもしれない。でも毎日入っているうちにピンクが普通だと思うようになるんですよ。それがいつの間にか真っ赤なお風呂になっていて、でも本人はもうそれがお風呂の色だと思うようになってしまっている、そういう感じです。」
そしてある日、父親に「ドライブに行かないか?」と誘われます。
父親からの誘いに、「ドライブなんて絶対ウソ。後で嘘をついたとなじってやる。」という想いを心に秘め、目的地に到着。
最終的に宗教と決別を自身で決めることができたのは、統一教会のすべてを勉強した父親の説得でも、カウンセリングの結果でもありませんでした。
このドライブの目的地で父親が下を向いたまま、「会ってもらいたい人がいるんだ」って言ったそうです。
これまで見てきた、知識が豊富で、強く偉大な父親のかげは、そこにはありませんでした。
実際の年齢よりも10歳も20歳も年老いてしまったお爺さんのような、今までで見たことない弱々しい父親が目に映り、「あぁ私のせいでこんなに父が苦しんでいる」っていうのが身にしみて分かったそうです。
その時初めて、すべての鎖が解けていきました。
そして、飯星景子さんは、家族の愛に触れて脱会を決意。
この経験は、彼女の人生観を変え、現在も「統一教会は宗教だとは思っていません」と断言するほどです。
1993年に飯干晃一さんはこの闘いの記録をまとめた著書『われら父親は闘う―娘・景子を誘いこんだ統一教会の正体』を出版し、教団の実態を世に問いました。
本書では、娘の心の隙間に入り込んだ教団の策略を分析し、家族の必死の説得過程を克明に描いています。
飯干晃一さんは、娘の脱会を「心の飢えを満たすための闘い」と位置づけ、自身の半生を賭けた覚悟を綴っています。
この本は、カルト問題の啓発書としても評価され、読者に強い印象を与えました。
そして飯星景子さんが統一教会から脱会した4年後の1996年3月2日に、心筋梗塞により71歳で逝去。
飯星景子さんは、「父は、私の尊厳と人権を守ってくれた。父の執念がなければ脱会できなかった。」と感謝の念を述べています。
飯干晃一さんの遺志は、娘の現在の活動を通じて今も生き続けています。
今回はここまでです。
これからも、飯星景子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!
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