藤本隆宏 妻と子供はいる?脳性麻痺の真相&水泳日本記録・俳優転身理由は?
もくじ
藤本隆宏さんのプロフィール
藤本隆宏さんは、1970年7月21日生まれの俳優で、元競泳選手です。
福岡県北九州市出身で、宗像市で育ちました。
身長183cmのがっしりとした長身が印象的な方です。
所属事務所はヒルストン・エンタープライズで、2011年からは宗像・沖ノ島と関連遺産群の応援大使を務めています。
競泳選手時代にオリンピックに2大会連続出場した経歴を持ち、現役引退後は俳優として数多くの舞台やドラマ、映画で活躍しています。
学歴は、西日本短期大学附属高等学校を卒業後、早稲田大学人間科学部を卒業しました。
人間科学部では、スポーツ科学を基盤とした学びを深めながら、競泳のトレーニングを続けていたそうです。
幼少期の藤本隆宏さんは、福岡県宗像市ののどかな環境で過ごしました。
小学2年生の頃、近所に手作りのビニールハウスのプールが作られ、そこが水泳を始めるきっかけとなりました。
当時の宗像市には本格的なスポーツ施設が少なく、近所の子供たちのほとんどがそのプールに通っていました。
藤本隆宏さんは、最初は遊び感覚で水に触れましたが、すぐに泳ぎの楽しさに夢中になりました。
家族の影響も大きく、父親が地元で水泳の指導に携わっていたため、自然と水辺が身近な存在だったようです。
小学校低学年で既に平泳ぎの基本を習得し、上級生になると自由形やバタフライにも挑戦するようになりました。
この時期の藤本隆宏さんは、活発で好奇心旺盛な少年で、夏休みは毎日のようにプールで過ごすのが日課でした。
学生時代に入ると、藤本隆宏さんの水泳人生が本格化します。
中学生の頃から才能が注目され始め、全国大会への出場を果たしました。
西日本短期大学附属高等学校に進学した高校時代は、練習量が飛躍的に増え、1日あたり2万5千メートル以上を泳ぐ日々が続きました。
学校の健康スポーツコースで専門的な指導を受けながら、朝夕のトレーニングを欠かさず、時には学校のプールが閉まるまで残って泳ぎ込んだそうです。
この厳しい練習が、藤本隆宏さんを全国レベルの選手に育て上げました。
高校3年生の1988年には、日本選手権の200m個人メドレーと400m個人メドレーで優勝を飾り、同年のソウルオリンピックに高校生として出場を果たしました。
大学進学後も早稲田大学水泳部に所属し、競技生活を継続。
学業と両立しながら、国際大会での活躍を重ねました。
学生時代の藤本隆宏さんは、チームメイトから「ストイックな練習人間」と慕われ、部活のムードメーカーでもありました。
結婚した妻や子供は?
藤本隆宏さんの結婚生活や妻、子供に関する情報は、公表されていません。
公式のプロフィールやインタビューでは、私生活について触れられることは少なようです。
脳性麻痺?
藤本隆宏さんは、脳性麻痺の障害はありません。
競泳選手としてオリンピックに2大会連続出場し、健常者として活躍した経歴が公式記録に残っています。
健康面でのエピソードとして、トレーニング中の怪我や故障を乗り越えた話はありますが、脳性麻痺に関する記述は一切見当たりません。
似たような名前の別の方の関連ワードのようです。
水泳記録は?
藤本隆宏さんの水泳記録は、個人メドレー種目を中心に輝かしいものです。
1984年の全国中学大会では、競泳で5位入賞を果たしました。
1986年の国民体育大会少年B部門では、400m個人メドレーで優勝。
高校時代の1988年には、日本選手権の200m個人メドレーと400m個人メドレーでそれぞれ優勝し、ソウルオリンピックに200m個人メドレーと400m個人メドレーで出場しました。
1989年には、200m個人メドレーで日本記録2分03秒35を樹立。
これは1992年まで保持されました。同年、400m個人メドレーでも日本記録4分20秒07をマークし、2000年までこの記録を維持しました。
1990年の日本選手権では200m自由形で優勝し、北京アジア大会の200m個人メドレーと400m個人メドレーで金メダルを獲得。
これは日本人選手として同大会初の快挙でした。
1991年の夏季ユニバーシアードでは400m個人メドレーで優勝、200m個人メドレーで3位入賞と日本新記録を更新し、日本水泳連盟から最優秀選手賞を受賞しています。
1992年のバルセロナオリンピックでは、400m個人メドレーで8位入賞を果たし、日本人選手として同種目初のファイナリストとなりました。
1993年から1995年にかけては、オーストラリアに水泳留学し、技術を磨きました。
1994年の日本選手権で優勝、広島アジア大会では200m個人メドレー2位、400m個人メドレー3位。引退直前の1996年日本選手権では3位入賞を収めました。
これらの記録は、藤本隆宏さんの献身的な努力の結晶です。
現在も、ミミスイミングクラブのスーパーアドバイザーとして、後進の指導に携わり、2020年には日本オリンピック委員会からJOCスポーツ賞特別貢献賞を受賞しています。
2025年の第100回日本選手権水泳競技大会では、国歌斉唱を務めるなど、水泳界とのつながりは変わりません。
若い頃や現在は?
若い頃の藤本隆宏さんは、水泳一筋の熱血漢でした。
10代後半のソウルオリンピック出場時は、18歳の高校生として世界の舞台に立ち、緊張の中でも持ち前の集中力を発揮しました。
20代前半は早稲田大学在学中、北京アジア大会での金メダル獲得やバルセロナオリンピックのファイナリスト入賞で、日本競泳界の期待の星となりました。
練習は過酷で、1日2万5千メートル泳ぐルーチンをこなし、体重管理やメンタルケアに細心の注意を払っていました。
オーストラリア留学時には、現地の厳しい環境で英語を学びながら、海外選手との交流を深め、泳法の洗練を図りました。
1996年の現役引退後、劇団四季に入団し、俳優への転身を果たしました。
藤本隆宏さんが競泳選手から俳優に転身したきっかけは、オーストラリアへの水泳留学中にミュージカル『レ・ミゼラブル』を観劇したことです。
舞台の興奮と観客との一体感が、オリンピック会場の雰囲気に重なり、強い衝撃を受けました。
大学卒業後の1995年、劇団四季のオーディションに合格し、入団します。
現役引退までの1年間は、水泳練習と劇団レッスンを並行して過ごすというハードな人生でした。
1996年4月にアトランタオリンピック代表選考会で3位となり出場権を逃すと、現役を引退。
初舞台は1997年の「ヴェニスの商人」で、以降「キャッツ」のマキャビティ役などミュージカルで存在感を発揮。
20代後半から30代は、舞台を中心にキャリアを積み重ねました。
NHK大河ドラマ「平清盛」や「西郷どん」、TBS「JIN-仁-」「99.9-刑事専門弁護士」など、テレビドラマで重厚な役柄を演じ、2025年にはTBSドラマ「クジャクのダンス、誰が見た?」に出演。映画では「男たちの大和/YAMATO」や「記憶にございません!」で存在感を示しています。
舞台では「エリザベート」「シラノ・ザ・ミュージカル」「イントゥ・ザ・ウッズ」など、ミュージカルからストレートプレイまで幅広くこなしています。
藤本隆宏さんの現在は、過去の水泳経験を活かした多角的な活動で、ますます輝きを増しています。
今回はここまでです。
これからも、藤本隆宏さんの活躍を期待しています。
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