有森裕子の旦那ガブの子どもは?再婚は?会長涙の会見!若い頃や名言は?何がスゴイの?

未分類

もくじ

有森裕子さんのプロフィール

 

有森裕子さんは、1966年12月17日、岡山県岡山市に生まれました。

 

幼少期は、ごく普通の女の子として過ごされ、特別な才能が目立つわけではありませんでした。

 

 

両親は教育熱心で、裕子さんは小学生の頃から勉強に励み、運動も好きでしたが、目立ったエピソードは少なく、家族の温かな環境の中で育ちました。

 

中学時代に入ると、バスケットボール部に所属し、チームスポーツの楽しさを知ります。

 

しかし、足の速さと持久力が光り、校内の運動会では800メートル競走で3回連続優勝を果たすという珍しい活躍を見せました。

 

この頃から、持久系の運動に適性があることがわかり、陸上への興味が芽生え始めます。

 

高校は地元の就実高校に進学し、陸上部に入部しますが、当初は補欠の立場で苦労しました。

 

入部を認められるまで1ヶ月待ち、記録を残せない日々が続き、挫折を味わいます。

 

それでも諦めず、努力を重ねました。大学は日本体育大学体育学部体育学科に進み、陸上部で本格的にトレーニングを積みます。

 

学生時代は絵画にも才能を発揮し、賞を獲得したエピソードもあり、多才な一面が垣間見えます。

 

就実高校卒業後、リクルートに入社し、社会人ランナーとして活躍の基盤を築きました。

 

このような幼少期から学生時代の地道な積み重ねが、有森裕子さんの強靭な精神力を形成したのでしょう。

 

 

有森裕子の旦那ガブの子どもは?再婚は?

 

有森裕子さんの旦那様といえば、ガブさんという愛称で呼ばれた「ガブリエル・ウィルソン」さんです。

 

ガブリエルさんはアメリカ人で、ダンス教師として活躍されていました。

 

お二人の出会いは、1997年2月、有森さんがアトランタ五輪後の語学留学でアメリカ・コロラド州ボルダーに滞在中にありました。

 

語学学校のパーティーで出会い、ガブリエルさんの片言の日本語がきっかけで意気投合し、交際に発展します。

 

翌1998年1月、身内だけの結婚式をボルダーで挙げました。

 

しかし、結婚直後にガブリエルさんの金銭トラブルが次々と発覚し、経歴詐称の疑惑も浮上しました。

 

それでも有森さんは支え続けましたが、1998年2月の結婚会見で、ガブリエルさんが同性が恋愛対象と告白をされたのです。

 

この発言はメディアを騒がせ、有森さんのご両親からも猛反対がありましたが、有森さんは「彼の弱さも受け止める」と理解を示しました。

 

別居生活が続き、数年前から日米で拠点を分けるようになり、2011年7月に離婚が成立しました。

 

離婚発表の際、有森さんは「何度も話し合い、悩んだ末の結論です」と円満を強調されました。

 

ガブリエルさんとの間に子どもは授かりませんでした。

 

これは不妊ではなく、現役選手だった有森さんのキャリア優先が理由だったようです。

 

現在、ガブリエルさんはアメリカ・マイアミで暮らしており、再婚情報はありません。

 

有森さんは子どもが好きで、NPO活動を通じて多くの子どもたちと触れ合っておられますが、ご自身の子どもについては特に公表されていません。

 

再婚については、有森裕子さんは現在も独身をお選びのようです。

 

離婚から14年以上が経過しましたが、再婚の噂はなく、プライベートを公にしないスタンスを貫かれています。

 

引退後の多忙な社会活動が理由の一つでしょう。

 

 

有森裕子さんは「かわいい」という関連ワードでも多く検索されているので、まだまだ多くのファンを魅了されているようです。

 

 

2010年に国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞。

 

有森さんは「自分の生き方にこだわること」を信条に、結婚や出産を優先事項とせず、自由な人生を歩んでおられます。

 

離婚のきっかけに父親の死が関係したと言われ、両親の反対を押し切った結婚だったため、父親の逝去を機に「無理をしない生き方」を選んだそうです。

 

 

会長涙の会見!

 

有森裕子さんが日本陸上競技連盟の会長に就任された際の涙の会見が印象的でした。

 

2025年6月、女性初の会長に選出された有森さんは、記者会見で「組織に石を投げてきた私ですが、選手目線で変えていきたい」と立候補の理由を語られました。

 

 

そして、2025年9月12日の東京世界陸上開幕前日会見では、感激のあまり声を震わせ、涙をこらえながら「泣かないつもりでしたが…」と語りました。

 

国立競技場で世界中のアスリートを迎える立場になり、34年前のバルセロナ五輪デビュー時の興奮を思い出し、「私は幸せな国際デビューができた」と実感されたのです。

 

この会見は、過去の選手経験を活かしたリーダーシップを示すもので、多くのファンを感動させました。

 

会長就任の裏で、1996年のプロ宣言のように「前例になる」ことを目指されたそうです。

 

若い頃の有森裕子さんは、学生時代に補欠続きで苦しみましたが、それが後の飛躍の原動力になりました。

 

1989年にリクルート入社後、1990年の大阪国際女子マラソンでデビューし、当時の日本女子最高記録を樹立。

 

1991年の世界選手権で4位、1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得し、日本女子マラソン初の快挙。

 

1995年北海道マラソン優勝、1996年アトランタ五輪銅メダルと、2大会連続メダルは日本女子陸上史上初。

 

1999年ボストンマラソン3位で自己ベストを更新し、2007年東京マラソンで引退されました。

 

 

若い頃や名言は?

 

写真で見る若い頃は、細身の体躯で真剣な表情が印象的で、バルセロナのゴールシーンは今も語り草です。

 

他に若い頃エピソードとして、高校時代に絵画で賞を取った才能や、目標達成のご褒美にチーズケーキを1ホール食べるというユニークな習慣があるそうです。

 

有森裕子さんの名言といえば、1996年アトランタ五輪後の「自分で自分を褒めたいと思います」が有名です。

 

 

この言葉は、銅メダル獲得の喜びを素直に表現したもので、1996年の流行語大賞に選ばれました。

 

実は、この名言の起源はフォーク歌手の高石ともやさんからの影響で、2024年の追悼イベントで有森さんが明かされました。

 

他にも「一所懸命は必ず勝ちます」「世の中にたった一人しかいない自分の生き方にこだわること」「二度とやってこない一瞬一瞬を精一杯生きること」などの言葉が、心に響きます。

 

これらは、講演や著書『わたし革命』で繰り返し語られ、自己肯定感の大切さを伝えています。

 

名言誕生のきっかけは高石さんの励ましで、「褒めてやりたい」という言葉が有森さんの心に刻まれたそうです。

 

何がスゴイの?

 

有森裕子さんがスゴイのは、競技実績のほか、社会貢献の広さです。

 

2大会連続五輪メダルは日本女子陸上界の金字塔で、1996年に日本初のプロランナー宣言をし、アスリートの商業活動を可能にしました。

 

引退後、1998年にNPO「ハート・オブ・ゴールド」を設立し、地雷で手足を失ったカンボジアの子どもたちに義肢を寄贈し、走る機会を提供。

 

スペシャルオリンピックス日本理事長、国連人口基金親善大使、2023年から世界陸連理事を務め、2025年に日本陸連女性初会長就任。

 

2010年のIOC女性スポーツ賞受賞は日本人初です。

 

カンボジア国王から勲章を授与されたり、更年期の経験を「朗報」とポジティブに語る姿勢が、女性アスリートのロールモデルとなっています。

 

これらの功績は、単なるランナーではなく、社会を変えるリーダーとしての有森裕子さんを象徴します。

 

彼女の人生は、努力と信念の賜物です。

今回はここまでです。
これからも、有森裕子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!

記事のポチっと拡散感謝です~(*´ω`*)