杉良太郎の息子は?妻や前妻は?現在里子やボランティアは?警察とは?若い頃は?
もくじ
杉良太郎さんのプロフィール
杉良太郎さんは、1944年8月14日生まれの兵庫県神戸市長田区出身の歌手・俳優・篤志家です。
本名は山田勝啓さんで、身長178cm、血液型O型。兵庫県南あわじ市出身の父と、鹿児島県徳之島出身の母の間に、姉3人の末っ子として生まれました。

幼少期から母親の苦労する姿を見て育ち、歌が好きだったため、15歳の頃から歌の道を志すようになります。
各地ののど自慢大会に出場したものの、当時は評価されず、苦労の連続でした。
学歴は、神戸市立長田小学校と神戸市立西代中学校を卒業後、高浜海員学校(現在の国立清水海上技術短期大学校)に入学しますが、中退しています。
また、養神館合気道の5段をお持ちで、武道にも親しんでこられました。
学生時代については、具体的な部活動や習い事の記録は残っていませんが、歌謡学院に通い、歌唱の基礎を磨いたとされています。
こうした背景から、1965年に歌手デビューを果たし、以後、俳優としても活躍。時代劇を中心に、数多くの作品に出演されてきました。
現在も精力的に活動を続け、81歳を迎えられた今も、舞台や慈善活動で多忙を極めています。
杉良太郎さんの息子は?
杉良太郎さんの息子は、長男の山田純大さんです。
山田純大さんは1973年2月14日生まれの俳優で、身長180cm。
杉良太郎さんの前妻との間に生まれ、ホリプロ・ブッキング・エージェンシーに所属しています。
1997年にNHK連続テレビ小説「あぐり」でデビューし、以降、「水戸黄門」や「半沢直樹」などの作品で活躍されています。
趣味はスポーツ観戦や旅行、釣りで、特技にはグレイシー柔術や殺陣、英会話があります。
ハワイの中学・高校を経て、アメリカのペパーダイン大学を卒業した経歴をお持ちです。
杉良太郎さんには山田純大さん以外に、長女と次女もいらっしゃいます。
長女さんには2007年5月1日に第1子となる男児が生まれ、杉良太郎さんは孫に「お兄さん」と呼ばせることを宣言されています。
山田純大さんは2016年春に、元女優の田京恵さんと結婚。
挙式は婚姻届提出後に行われました。
杉良太郎さんはこの結婚について、「親として言うことはない」と温かく見守っていらっしゃいます。
家族の絆を大切にされ、伍代夏子さんとともに、家族ショットを公開されることもあります。
妻や前妻は?
杉良太郎さんの現妻は、演歌歌手の伍代夏子さんです。
伍代夏子さんは1962年生まれで、杉良太郎さんより17歳年下。
1999年に結婚され、おしどり夫婦として知られています。
馴れ初めは、伍代夏子さんが杉良太郎さんの舞台を観劇したことがきっかけで、電話番号を交換し、毎日連絡を取る仲になりました。
当初、伍代夏子さんは「嫁に行くつもりはない」と語っていましたが、杉良太郎さんの誠実さに心を動かされ、再婚に至りました。
2人の間には子供はいませんが、杉良太郎さんの子供たちとも良好な関係を築かれています。
2024年12月25日には、25回目の結婚記念日に、杉良太郎さん、山田純大さんらと家族ショットを公開されました。
前妻は八田信子さんで、1972年に結婚されました。
杉良太郎さんが26歳の時、7年越しの恋が実っての婚約でした。
八田信子さんは当時OLで、一般の方です。
26年間の結婚生活で、長男の山田純大さん、長女、次女の3人のお子さんをもうけられました。
1998年に離婚されていますが、詳細な理由は公表されていません。
離婚後も、子供たちの養育については円満に進められたようです。
杉良太郎さんは、再婚後の伍代夏子さんと共に、前妻のお子さんたちを大切にされています。
現在里子やボランティアは?
杉良太郎さんは、15歳の頃からボランティア活動を始め、私財を投じて数十億円規模の支援を続けていらっしゃいます。
現在、ベトナムでの里子支援が特に知られ、2025年3月時点で245人を里子に迎え入れています。
このうちベトナム人の里子は236人で、2024年8月時点の数字です。
支援は1990年代初頭から続き、36年目を迎えています。
ハノイ市などで日本語学校などの教育施設を設置し、無償援助を提供。
ベトナム政府から特別友好大使を委託され、1997年には国家主席から友誼勲章(外国人に贈る最高位の勲章)を受章。
2019年には3等級労働勲章も授与されました。
2005年には外務大臣から「日本ベトナム親善大使」を委嘱され、2007年にベトナムから「ベトナム日本友好大使」、2008年に「日本ベトナム特別大使」と、次々に任命されています。
2014年には「日越特別大使」「越日特別大使」も務め、日越外交関係樹立35周年記念の音楽祭を主導されました。
また、2013年にASEAN特別大使に任命され、アジア各国との文化交流に貢献したとして、内閣総理大臣感謝状を受け取っています。
震災支援も活発で、1995年の阪神・淡路大震災では、大型ヘリコプター2機をチャーターし、1000人分の救援物資を空輸。
自ら被災地で救援活動に携わりました。
実家も被災した経験から、2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災でも、車両12台で炊き出しや物資輸送を実施。
三陸鉄道の復旧支援ヘッドマークのオーナーとなり、2012年には日本財団から伍代夏子さんと共に表彰されました。
2013年のフィリピン台風ヨランダでは、チャリティコンサートを企画し、学校建設を支援。福島第一原子力発電所の「Jヴィレッジ」では、芸能人として初めて慰問コンサートを開きました。
2019年には、高齢運転者による事故防止のため、74歳で運転免許証を自主返納。
こうした活動を通じて、政財官界に幅広い人脈を築かれています。
警察とは?
杉良太郎さんは、2018年11月に国家公安委員会委員長から警察庁特別防犯対策監に任命され、永久委嘱されています。
この役割で、特殊詐欺被害防止に尽力され、全国の警察署を訪問し、啓発活動を展開しています。
プロジェクトチーム「SOS47」を著名人らに呼びかけ結成し、「家族の絆作戦」として、オレオレ詐欺などの対策を推進。
2022年12月には、高知県警の年末年始警戒活動出発式で警察官の制服を着用し、参加されました。
2025年6月には、東京・浅草の住宅を訪問し、国際電話の着信拒否サービスを勧め、注意喚起。
8月には長崎県や広島県の警察本部を訪れ、意見交換をされています。
鹿児島県民向けメッセージでも、「自分の身に起こらないと信じている方に詐欺が来る」と警鐘を鳴らされています。
こうした活動は、杉良太郎さんの福祉への情熱が警察分野にも及んでいることを示しています。
若い頃は?杉良太郎さんの若い頃は、下積みの苦労が印象的です。
18歳から20歳の頃、カレー屋の丁稚奉公で生計を立て、3年間まかないのカレーライスしか口にせず、朝6時から夜11時まで無休で働きました。
休みは元日だけという厳しい日々でした。
歌手を目指したきっかけは、俳優のように長時間拘束されず、一曲歌えば儲かると考えたためですが、実際にはヒット曲が出るまで10年かかりました。
1965年、21歳で「野郎笠」で日本コロムビアからデビューしましたが、曲は売れず、月給2万円で家賃も同額。
神戸の実家からの仕送りで何とか生活を繋いでいました。
歌番組出演時、ギャラの代わりに付け届け金が必要で、親戚に知らせて集めたものの、金額不足でワンコーラスしか歌えず、悔しさを味わいました。
芸名「杉良太郎」は、作詞家の関沢新一さんが命名。
デビュー当時の「背が高く素直な青年」の印象から、杉の木のようにすくすくと育つよう願いを込めました。
当初は「杉良太」でしたが、スタッフの要望で「郎」を付け、大人らしい名前に。
1966年から日活に所属し、俳優デビュー。
1967年のNHK「文五捕物絵図」で主演を務め、ブレイクのきっかけに。1970年の映画「花の特攻隊 ああ戦友よ」でも主演を果たしました。
こうした下積み時代に培った忍耐が、後の成功の基盤となっています。
20歳の頃を振り返り、「一度は死ぬほど懸命に打ち込む経験をしてほしい」と、後輩に語っていらっしゃいます。
今回はここまでです。
これからも、杉良太郎さんの活躍を期待しています。
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