戸田奈津子の誤訳論争の真相・独身の理由・トム・クルーズとの35年・引退と現在・英語力の原点まで
もくじ
戸田奈津子さんのプロフィール
通訳、映画字幕の翻訳家として活躍の戸田奈津子さんは、1936年7月3日、福岡県戸畑市(現在の北九州市戸畑区)で生まれました。
銀行員の父と専業主婦の母のもとに誕生した戸田奈津子さんは、夏生まれであるため、当初は「夏子」と名付けられる予定でしたが、母が「味気ない」と感じ、柔らかな響きの「奈津子」に改められたそうです。
生後わずか1歳の頃、父は日中戦争で上海近郊に召集され、戦死されました。
母は22歳の若さで未亡人となり、幼い戸田奈津子さんを連れて、東京・世田谷区の母の実家へ移り住みました。
以後、母子二人三脚の生活が始まりました。幼少期は戦時中の厳しい環境の中で過ごしました。
母は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の教員資格養成所に入学し、高校教諭となるための勉強に励みました。
戸田奈津子さんは母の影響で、同じ敷地内の附属幼稚園に入園。
以降、お茶の水女子大学附属小学校、附属中学校、附属高等学校へと進学しました。
1945年の東京大空襲では家屋が焼失を免れましたが、父の実家がある愛媛県西条市へ一時疎開を経験。
疎開先では、終戦直後に米兵が駐留し、初めて外国人の姿を目にしました。
当時、子どもたちは「鬼畜米英」と教育されていたため、背の高い米兵の姿に驚き、逃げ回ったそうです。
しかし、一部の男の子たちが「ギミ・チョコレート」と英語を覚え、菓子をもらう様子を見て、戸田奈津子さんは英語への興味の芽を植え付けられたのかもしれません。
学生時代は、映画への情熱が花開きました。
戦後、娯楽の少なかった時代に解禁された外国映画に衝撃を受け、中学生の後半からは一人で映画館へ足を運ぶようになりました。
高校生になると、名画座に通い詰め、特に『第三の男』を50回以上観賞。
セリフを暗記するほど夢中になり、スクリーン上の俳優たちの英語が、戸田奈津子さんの心を強く惹きつけました。
部活や習い事としては特に目立つものはありませんでしたが、映画鑑賞が最大の趣味であり、英語学習の原動力となりました。
津田塾大学学芸学部英文学科へ進学したのも、こうした背景があったからです。
大学時代は英文科の授業を通じて基礎を固め、卒業論文ではシェイクスピアの作品を扱いました。
1958年の卒業後、第一生命保険の秘書として英文翻訳の仕事に就きましたが、約1年半で退社。
映画字幕翻訳家になる夢を追い、フリーランスの道を選びました。
もともと帰国子女でもなく留学した経験もないこともあってか、実際に翻訳家として軌道に乗ったのは40歳の頃だったそう。
翻訳家になりたいという方たちも、諦めずに夢を追い続けると、多くのハリウッド俳優と親しくなれるほどの翻訳家になれるかもしれませんね。
戸田奈津子が誤訳?
戸田奈津子さんは、映画字幕翻訳の第一人者として、1500本以上の作品を手がけてきました。
1970年の『野生の少年』でデビューし、1980年の『地獄の黙示録』で本格的に注目を集めました。
以降、『E.T.』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『タイタニック』『スター・ウォーズ』シリーズなど、数々の名作を担当。
年間50本のペースで翻訳をこなし、映画翻訳家協会の元会長も務めました。
しかし、インターネットの普及とともに、意訳や誤訳の指摘が相次ぎました。
特に『ロード・オブ・ザ・リング』公開時、原作ファンが字幕の修正を求める署名活動を起こす騒動となりました。
映画評論家の町山智浩さんは、『パルプ・フィクション』での「chopper」(チョッパーバイク)をヘリコプターと訳した点や、『スター・ウォーズ』での「local」(地元)を「ローカルの星人」とした点を挙げ、「注釈を読んでいない」と批判しています。
また、『アマデウス』で「requiem」(鎮魂曲)を「death mask」(死面)と誤訳した例や、『アポロ13』での電源回路の「open/close」の意味取り違えも指摘されています。
戸田奈津子さん自身は、こうした批判に対し、「字幕は文字数の制約が多く、直訳では意味が通じない。意訳は必要で、観客に『日本語を話している』錯覚を与える透明な字幕を目指す」と説明しています。
2015年のインタビューでは、「素人には苦労がわからないが、間違った訳は避ける」と語り、完璧を期す姿勢を示しました。
批評家の中には、戸田奈津子さんの翻訳が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ターミネーター2』で楽しさを増したと評価する声もあり、過度な槍玉に挙げるのは不当とする意見もあります。
通訳者の鳥飼玖美子さんは、「限られた時間での作業で完璧は難しい。努力を評価すべき」と擁護しています。
戸田奈津子さんの翻訳は、時代とともに進化し、最近の作品では専門用語の監修も徹底されています。
誤訳の批判に対し、戸田奈津子さんは …「気にしない」んだそう(笑)。
戸田奈津子さんが誤訳をしてはいないか、アンチのファンも結局のところ、作品を見てしまっているのかもしれませんね。
旦那や娘は?
戸田奈津子さんは、結婚歴がなく、夫もいません。
子どももおらず、娘さんはいらっしゃいません。
20代の頃、周囲からお見合いを勧められましたが、「楽しい翻訳の仕事を辞めるほど素敵な人には出会わなかった。」と振り返っています。
母の影響も大きく、母は再婚の話があっても全て断り、一人で気楽に生きる道を選びました。
戸田奈津子さんも、「すべてを持つことはできない。仕事に全力を注ぐため、家庭を持つことを捨てた」と語っています。
母とは76歳まで二人暮らしで、家事は母が担い、戸田奈津子さんは仕事に専念。
母の死後、友人たちを家族のように大切にしています。
映画好きの仲間と集まり、DVD鑑賞会を楽しむ「映画クラブ」を主宰し、そこで得る喜びが、家族同様の関わりとなっています。
ハリウッドスターとの交流も深く、トム・クルーズさんからは「日本の母」と慕われていますが、私生活は仕事中心のシンプルなものです。
戸田奈津子さんの選択は、女性の生き方の多様性を示すものです。
引退して京都?
戸田奈津子さんは、2022年、通訳業務から引退しました。
86歳の誕生日イベントで発表し、最後の仕事はトム・クルーズさんのビデオメッセージ通訳でした。
通訳を引退する理由としては、
「今のところは一応元気ですけど、もし何かあって迷惑をかけたら、トムであったり映画会社に申し訳ないから、もうやめるべきだと決意しました。」
と、語られています。
トム・クルーズさんから「もう一度やってほしい」と引き留められましたが、決意を固めました。
一方、字幕翻訳は現在も現役で続けています。
2025年4月、旭日小綬章を受章し、10月1日には東京都名誉都民の称号も授与されました。
引退後の生活は、東京・世田谷の自宅でゆったりと過ごしています。
母の思い出が詰まった家を離れず、友人との旅行や映画鑑賞を楽しんでいます。
京都への移住や引退の情報はありませんが、過去の通訳業務で大阪の記者会見後、トム・クルーズさんらと京都を訪れ、ぶらりと散策したエピソードはあります。
フランスやイタリアへのドライブ旅行が趣味で、母と年2回海外を回った経験から、自由な旅を好みます。
戸田奈津子さんの今後は、翻訳を中心に、穏やかな日々を重ねていくでしょう。
トムクルーズとは?
戸田奈津子さんとトム・クルーズさんの出会いは、1986年の『トップガン』来日時です。
以後、30年以上にわたり、通訳と字幕翻訳を担当。
お誕生日が同じ7月3日という偶然もあり、毎年お花が送られてくるそうです。
『ミッション:インポッシブル』シリーズ全作や『ラスト・サムライ』など、トム・クルーズさんの主演作に欠かせない存在となりました。
トム・クルーズさんは戸田奈津子さんを「日本の母」と呼び、同じ7月3日生まれの誕生日を祝い合い、花束やエルメスのスカーフを贈ります。
2025年5月の『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』記者会見では、客席の戸田奈津子さんを見つけ、「字幕に心血を注いでくれる。私たちにとって絶対に必要な存在」と感謝を述べました。
引退発表時も、メールで連絡すると「本当に辞めるの? すごく困る」と電話で引き留めましたが、最終的に理解を示しました。
二人の絆は、仕事を超えています。
来日プロモーションで大阪後、京都を散策し、地元料理を楽しんだり、ホテルのラウンジでお茶をしたり。
2024年のティータイムでは、トム・クルーズさんの妹も同席し、2時間以上にわたり語らいました。
トム・クルーズさんの情熱的な仕事ぶり、例えば『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』で6分半の息止め訓練を披露した話も共有。
戸田奈津子さんは、「本当に優しい方。言葉を切って訳しやすくしてくれる」と人柄を讃えます。
リチャード・ギアやブラッド・ピットら他のスターとも交流がありますが、
トム・クルーズさんとの関係は特別。
互いの人生を豊かにする、かけがえのない絆です。
英語力の原点は?
戸田奈津子さんの英語力の原点は、戦後すぐの外国映画との出会いです。
終戦翌年、焼け野原の東京で解禁されたハリウッド映画に衝撃を受け、「俳優たちが話すあの言葉を知りたい」と強く思いました。
中学1年生で英語の授業が始まりましたが、当初は苦手意識がありました。
英会話の授業はなく、すべて読み書きと文法中心。
2年生で出会った素敵な先生の指導で、洋画のセリフを追いかける楽しさを知り、熱が入りました。
高校生の頃、『第三の男』を50回観てセリフを暗記し、名画座通いが英語学習の原動力となりました。
大学では津田塾大学英文科でシェイクスピアなどを学び、基礎を固めました。
卒業後、第一生命で英文翻訳を経験し、映画会社のアルバイトで通訳を始めました。
初の記者会見通訳は、ほぼ人生初の英会話で緊張しましたが、清水俊二氏の指導で字幕翻訳の道へ。
戸田奈津子さんは、「英語をモノにするには、読み書きと文法が基盤。
基礎ができれば会話は後からついてくる」と強調します。
現代の英会話偏重教育に疑問を呈し、「書く力で文法を体得せよ」とアドバイス。
映画への純粋な愛が、英語力を磨く原点です。
左目を失明した過去もありますが、情熱は衰えず、88歳の今も翻訳を続けています。
今回はここまでです。
これからも、さんの戸田奈津子さんの活躍を期待しています。
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