木の実ナナ現在更年期・車椅子?旦那や妹は?ハーフ?若い頃古谷一行とは?
もくじ
木の実ナナさんのプロフィール
木の実ナナさんは、1946年7月11日、東京都墨田区東向島で生まれました。
本名は池田鞠子といい、女優としてだけでなく歌手としても活躍するマルチタレントです。

幼少期は、六畳一間の木造アパートで両親、妹、祖母、叔父の6人家族で暮らしていました。
父親はトランペット奏者として生計を立て、母親は若い頃にダンサーを務めていたそうです。
出身地の近くは、戦後間もない頃の歓楽街として知られ、賑やかな下町の雰囲気が日常でした。
ナナさんはそんな環境で育ち、家族の生活を支えるために、中学2年生の時、友人の付き添いで受けた、渡辺プロダクションの新人オーディションに応募し、みごと優勝し、芸能界入りしています。
2か月ほど早産で生まれたため、幼い頃、病弱だった木の実ナナさん。
3歳頃までしっかり歩くことができなかったことから、長命寺で行われていたバレエ教室でバレエを習うことに。
バレエにのめり込み、どんどん上達したそうです。
芸能界に入ってからは「歌って踊れる歌手」として売り出されました。
学歴は墨田区立寺島中学校を卒業後、城西高等学校に入学しますが、仕事が忙しくなったためわずか3ヶ月で中退しています。
学生時代は、歌やダンスに親しみ、将来の夢をミュージカル女優として抱いていました。
15歳頃には、家族の経済を支えるために前座歌手としてステージに立ち、厳しい芸能界の洗礼を受けながらも、持ち前の明るさと根性で乗り越えていきました。
しかし、ヒット曲に恵まれず、下積みの時代が長く続き、心機一転、1970年に単身渡米を決めました。
そして、帰国後の1973年、26才の頃、劇団四季の「アプローズ」のオーディションに合格し、高評価を得て、仕事が増えていったそうです。
時代背景を考えると、女性が単身、演劇留学を決めるなんて、一大決心だったことでしょう。
しかし、努力の甲斐あり、しっかりと大きな結果につながったのですね。
現在更年期・車椅子?
木の実ナナさんは、40代後半の頃から体調の変化を感じ始め、1992年頃に更年期障害に伴ううつ症状を発症しました。
当初は生理不順やイライラ、集中力の低下といった症状が現れ、仕事への意欲が著しく低下してしまいました。
木の実ナナさんの不安定な状況をメイクさんは理解されていたようで、ナナさんがヘアセットの際に乱暴に振りほどいた時に「私に話して」と言ってくれたそう。
その一言で、自分の理解者がいるんだと感じ、心が楽になったと言います。
それからメイクさんには、他の人には言えない悩みなど話すようになりました。
撮影中に気持ちが落ち着かなくなった時には、メイクさんにしかわからない合図をおくり、それに気づいたメイクさんは、監督にメイク直しをお願いし、木の実ナナさんに落ち着くための時間をとってくれたそう。
その後も複数の病院で診てもらいましたが、原因は特定できず、薬を飲んでも症状は改善しませんでした。
症状が軽減に向かうきっかけは、ファンからプレゼントされた本の最後のページにあった心療内科の名刺でした。
名刺にあった先生に会い、そこで初めて「更年期障害からくるうつ病」と診断されました。
病名がはっきりしたことで、薬や日常生活、症状が出た時の対処療法など、ようやく病気と向き合うことができました
ナナさんはこの病気を公表する勇気を持ち、2000年には製薬会社の新聞広告で自身の体験を語りました。
当時、「私は、バリバリの鬱です」と率直に表現し、多くの女性に勇気を与えました。
治療は医師の指導のもと、薬物療法とカウンセリングを組み合わせ、家族や周囲の支えが大きかったそうです。
ファンからもらった一冊の本… 不思議な出会いですね。
公表後には書籍を執筆し、更年期の乗り越え方を共有。
ある女優さんから「ナナさんの本で更年期を克服しました」と感謝の言葉をかけられたエピソードもあり、ナナさん自身も「私の経験がすべてではないけど、参考になれば」と語っています。
現在は症状をコントロールし、回復した状態で活動を続けています。
そして、車いすについてですが、木の実ナナさんは、2015年10月に大腿骨を骨折し、一時的に車いす生活を余儀なくされました。
当時、沖縄での舞台公演「南阿佐ヶ谷の母」の初日を終えた直後、ホテルのバスルームで転倒事故に遭いました。
視力が低下していたため段差に気づかず、左大腿骨を複雑骨折。
全治3ヶ月と診断され、所属事務所は当初の予定を調整しましたが、ナナさんの強い意志で公演を継続。
東京・紀伊国屋ホールでの上演では、車いす姿で役を全うしました。
共演者やスタッフのサポートを受け、痛みをこらえながらの演技は、観客から大きな拍手喝采を浴びました。
事故の背景には、長年の激務による疲労もあったと本人が振り返っています。
退院後はリハビリに励み、約1年で車いすなしの日常生活に戻りました。
美脚がトレードマークだったナナさんにとって、この出来事は大きな試練でしたが、「体は道具。心が元気なら何でもできる」と前向きに語っています。
近年も転倒の後遺症で時折体調を崩すことがありますが、2023年6月には再び転倒し、大腿骨を骨折。
車いす生活とリハビリを余儀なくされ、要介護認定を受けました。
この影響で、2023年の映画『あぶない刑事』シリーズ最新作への出演を降板せざるを得ませんでした。
しかし、ナナさんは「引退ではない。体が回復したら戻る」と周囲に伝え、懸命にリハビリに取り組んでいます。
2025年現在は、歩行補助具を使いつつも、トークイベントやプライベートでの活動を再開。
2017年のデビュー55周年記念コンサートでは、骨折からの完全復活をアピールし、ファンに感動を与えました。
ナナさんの回復力は、幼少期からの下積み経験が培ったものです。
旦那や妹は?
木の実ナナさんは、意外にも、結婚歴はありません。
旦那さんの存在はなく、生涯を仕事と家族に捧げてきました。
24歳の時に結婚したい人がいたそうですが、父親に話したところ、誰が家の面倒見るのだ!と、どなられてしまったそう。
父親はアルコール依存症だったため、17歳の頃から、両親・妹、そして祖父祖母の家族6人の家計を支えていたそうで、結婚は叶いませんでした。
その責任感が、プライベートを犠牲にする要因となったようです。
一方で、妹の木の実まこさんは、ナナさんにとってかけがえのない存在です。本名は池田みま子で、ナナさんより15歳年下の血のつながった実妹です。
1975年、わずか16歳で「木の実まこ」として歌手デビューし、シングル1枚をリリースしました。
姉の影響で芸能界入りしましたが、短期間で引退。
1986年、25歳の時にCMプランナーの安芸研一さんと結婚し、一般家庭に入りました。
ナナさんは妹の結婚式で涙を流し、「お姉ちゃんの役目は終わった」と感慨深げに語っています。
妹夫婦とは今も良好な関係を保ち、ナナさんの支えとなっています。
ハーフ?
木の実ナナさんは、日本人の両親のもとに生まれ、純粋な日本人です。
ハーフやクォーターの血統は一切なく、父親は関西出身のトランペット奏者、母親は東京でダンサーをしていた日本人です。
小学生のころは、日本人離れした顔立ちと髪がパーマっ毛であったため、いじめに遭っていたそうです。
ナナさんの端正な顔立ちやスタイルの良さは、母親のダンス経験から受け継いだ遺伝と、厳しい芸能生活での鍛錬によるものです。
海外の血筋に関する噂は、共演作の影響や容姿の美しさから生まれた誤解でしょう。
ナナさん自身、インタビューで家族のルーツを日本国内に限定して語っており、血統の多様性は感じさせません。
むしろ、戦後復興期の東京で育った純日本人の強靭さが、彼女のキャリアを支えています。
子供の頃からハーフに間違われてからかわれた経験もあり、それが芸能界での個性を活かす原動力になったと振り返っています。
若い頃古谷一行とは?
木の実ナナさんと古谷一行さんの関係は、若い頃からの共演者として深く結ばれています。
1970年代後半から、数々のドラマでコンビを組み、特にサスペンス分野で名を馳せました。
1984年の「オレゴンから愛」では、アメリカ・オレゴン州でのロケを共に行い、刑事役の古谷さんと女優役のナナさんが息の合った演技を披露。
フジテレビの木曜劇場シリーズ第1作として話題になりました。
1980年代には、「ピンクハンター」シリーズで古谷さんの刑事とナナさんのパートナーが、ユーモアあふれる捜査を繰り広げ、後の「混浴露天風呂連続殺人」シリーズの原点となりました。
このシリーズは1982年から2007年にかけて全26作続き、温泉地を舞台にしたミステリーで人気を博しました。
古谷さんのクールな演技とナナさんの明るいキャラクターが絶妙にマッチし、視聴者を魅了。
プライベートでは、互いにリスペクトし合う友人関係で、恋愛の噂は一切ありません。
ナナさんは古谷さんを「信頼できるパートナー」と評し、共演の思い出を「人生の宝物」と語っています。
古谷さんの2019年の逝去後、ナナさんは追悼の場で涙ながらに「一緒に戦った戦友」と追憶。
共演の歴史は、ナナさんのキャリアの重要な一部です。
木の実ナナさんは、80歳近くになってもなお、女優としての輝きを失いません。
更年期や事故の試練を乗り越え、家族の絆を胸に、これからも活躍が期待されます。
今回はここまでです。
これからも、木の実ナナさんの活躍を期待しています。
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