残間里江子のブログは?夫と息子は?山口百恵・生島ヒロシとは?病気で失明?若い頃画像!
出版・映像など主に文化界でフリープロデューサーとして活躍の残間里江子(ざんまりえこ)さん。
1950年生まれで、出身地は宮城県仙台市です。
両親は国鉄職員として勤務の傍ら、父親は共産党を中心に、 母は「母親大会」を基盤に市民活動をされている人でした。
残間里江子さんが生まれる1949年~50年頃、アメリカ占領軍の指示により、政府や企業が日本共産党員とその支持者を解雇することとなり、父親も対象に。
父は東北各地に土木関係の仕事で出稼ぎへ、母親は保険の外交をしていましたが、収入がままならず、新天地をもとめて残間里江子さんが中学生になる時静岡県富士市へ引っ越しました。
給食費を3か月滞納してしまうこともありましたが、もっと困っている人がいるからと家のお金をもって助けにいく両親だったそうです。
小学・中学時代は、心臓弁膜症と関節リウマチの治療のため、年間100日は入院生活だった時期がありました。
高校は県内になる女子高校へ、大学は明治大学短期大学部を卒業。
大学卒業後、静岡放送にアナウンサーとして入社。
東北弁を直したいと大学時代にアナウンスアカデミーに通っていましたが、生徒の大半がアナウンサー志望だったことから、自身もアナウンサーを目指すようになったといいます。
エントリーシートに社内に知人がいれば書くという欄があり、名前を知っているんだから知人とそう変わらないと会社案内に書いてあった「会長」の名前を書いて提出。
面接時に「この中に会長はいますか?」と聞かれ「この中にはいらっしゃらないと思います。」と答えると「この人が会長です。」といわれ、知人ではないことがばれてしまったそうですが、しっかり採用されてよかったですね。
静岡放送はたったの2年で退職。
「職場からも2年ならまだ新人なんだからもう少し職場にのこって頑張りなさい」と引き止められていたそうです。
しかし、さらなる成長を望み、東京を目指します。
しかし、なにかのつてがあったわけでもなく、スーパーなどでアナウンスのバイトをしながら次の職探しをしました。
東京では「一日10人と出会う」という目標を掲げ、ある日芸能リポーターとして活躍の前田忠明さんと飲食店にいるときに出会い、それがきっかけで光文社に入社し「女性自身」で記者として働くきっかけをつかみました。
光文社では、22歳の夏から5年3カ月勤務。
その後、編集者として活躍しさらには財務省、国土交通省、法務省などで委員を担当し、政治の一端にかかわることもありました。
色々残間里江子さんに調べていると、多くの方からの信頼が厚い方なのだなと感じました。
もくじ
残間里江子のブログは?
残間里江子さんのブログは、残間里江子さんが立ち上げた大人のネットワーク「club willbe」の公式サイト内にあります。
その中には「失敗記念日」というお話もあり、数々の残間里江子さんの失敗談が書かれています。
もし、自分が何かを失敗して落ち込んでいても、世の中物事を失敗しているのは自分だけじゃないんだ、もっと大きな失敗をしてしまっている人がいるんだ…と、残間里江子さんのブログを読んでいて励まされるかもしれません。
他にも、残間里江子さんのブログを読んでいて、失敗やおっちょこちょいな自分でもできそうなことがあるかも!?と気づきを感じることもできるブログだと思います。
ぜひ、ご覧くださいね~。
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夫と息子は?
残間里江子さんは、26歳の頃に結婚されたそうです。
夫となった方は大学時代、同じ部活だっ方。
当時は女性自身の記者・編集者として多忙な日々を送っていたそうです。
すれ違いの日々を過ごすうちに、夫が浮気したことで離婚しようとしますが、夫が受け入れず長期調停に。
ある日、風の強い新宿の西口でふと、他の人と恋愛したら(元)夫もあきらめてくれるかなと思ったそう。
それから半年後の残間里江子さんが39歳の頃、夫ではない方との間に子どもを授かりました。
子供の頃からの心臓とリウマチの病気もあり、医者からは子供を授かることは難しいと言われていたことから、自分が妊娠したことが奇跡であり、とてもうれしかったそうです。
そして、全財産を旦那へ渡すという条件を飲んで、ようやく離婚が成立します。
でも子供の父親とは結婚せず、シングルマザーとなることを選択しました。
息子の父親が誰なのかは不明です。
当時も父親探しが白熱し、おむつ業者として自宅に来た人が実は記者だったということもあったそうです(怖)。
子供は息子一人で、TBSラジオ「コシノジュンコ MASACA」にゲスト出演した際に、現在息子はテレビ局に勤務しているという話をされています。
テレビ朝日系列で放送のドラマのエンディングロールに「残間」姓の方の名前があるというツイートもみられ、俳優ではないようですが、ドラマ制作にかかわっているようです。
息子にはしっかり金銭感覚を持ってもらいたいと、紛争地域の写真展などに連れていき、世の中には大変な思いをしている子供がたくさんいるんだよと伝えたそうです。
しかし、数多く連れて行っていると、もうわかったから次は○○戦隊のイベントに行きたいといわれたそう。
戦隊ものを見ているような幼いころから、難しいパネル展などに連れて行っていたのですね。
そんな母親の気持ちが通じたのか、きちんと立派に育ちましたね。
山口百恵自叙伝の担当となったきっかけは?
歌手として活躍されていた山口百恵さん。
人気絶頂期に俳優の三浦友和さんとの結婚を機に引退。
引退から40年、山口百恵の600曲以上サブスク解禁https://t.co/oBcJTynano pic.twitter.com/F2Vzvfn02u
— 音楽ナタリー (@natalie_mu) May 29, 2020
まだ21歳の若さで引退という選択…伝説の歌姫となり一般人となってからも40年以上経過していますが、存在があせることはありません。
山口百恵さんは、引退の際に自叙伝「蒼い時」を出版しました。
その自叙伝を作成するにあたり、プロデューサーとしてかかわったのが残間里江子さんでした。
二人をつないだのは、シャンソン歌手として活躍の金子由香利さんでした。
残間里江子さんが、音楽関連の雑誌編集にもかかわっていた頃、ファンとなった金子由香利さんとの仕事をすることができました。
山口百恵さんも金子由香利さんの歌が好きという話を以前聞いたことがあったということで、ダメ元で一言いただけませんか?と事務所に依頼したところ、ラジオ収録の束の間の間ならと許可をもらえました。
通常、口でコメントを伝えてくれるものですが、山口百恵さんはその場にあったメモ紙に金子由香利さん称賛のコメントを書いてくれました。
その文字は、驚くほど達筆だったそう。
その後、残間里江子さんの会社設立と山口百恵さんの引退の時期が重なったこともあり、見てはもらえないだろうと思いつつも、山口百恵さんへ婚約をお祝いするメッセージを送りました。
「ご婚約、おめでとうございます。もし百恵さんが引退なさらなかったら、どこかで仕事をご一緒できたかもしれませんね。」
すると、山口百恵さんから思わぬ返事が届きました。
「引退に際して、40社くらいから本を出さないかというオファーが来ているのですが、出版するとしたら、自分の手で書きたいので、手伝って頂けませんか。」
山口百恵さんは、引退までさらなる過密スケジュールとなった中、お仕事が終わるとまっすぐ残間里江子さんの事務所へ向かい、原稿を書いていたそうです。
コンサートを2公演終え、打ち上げ後の深夜1時から原稿書きをはじめて、日が明けるまで書いたり直したりとを繰り返し、山口百恵さんは次の公演先へ向かうというという日もあったそうです。
山口百恵さんは全部で760枚ほどの原稿を自分自身で書きあげました。
自分の経験をライターさんに話して、それをライターさんが原稿に書いてくれたわけではなかったのですね。
山口百恵さんも残間里江子さんなら、ありのままの自分を伝えることができる作品が作れると信頼深く感じていたのでしょうね。
伝説の歌姫から逆オファーをされていたなんて、編集者としてのかなり実力を感じます。
三浦友和さんと山口百恵さん結婚の引き出物の内容が「手帳、ノート、ボールペン、万年筆」だったというのも、もしかすると山口百恵さんが残間里江子さんをリスペクトした影響が少なからずやあったからなのかもしれませんね…。
生島ヒロシとは?
残間里江子さんの名前を検索すると、アナウンサー、タレントとして活躍の「生島ヒロシ」さんの名前が関連ワードに見られます。
前述の息子の父親ということではありません。
生島ヒロシさんが長年放送している「生島ヒロシのおはよう一直線!」の準レギュラーとして残間里江子さんが出演しています。
お互いに歯に衣着せぬかけあいで早朝から大笑いしてしまうこともしばしば。
番組終了後も、残間里江子さんのブログに生島ヒロシさんのラジオに出演した際の会話を振り返って思ったことをつづっていることもあります。
ぜひ、生島ヒロシさんのラジオ「おはよう一直線」の残間里江子さんの話も聞いてみてくださいね。
こちらの記事もどうぞ!
「生島ヒロシの事務所や通販は?妹が震災に?嫁や息子は?一直線ラジオ体操?」
病気で失明?
残間里江子さんは、生まれるとき難産で「鉗子(かんし)分娩」で誕生しました。
分娩の際に鉗子で頭の際と左の頬を傷つけてしまい、傷跡が残ってしまいました。
その後遺症で左目は光を感じることはできるが、色や物の判別ができない状態になってしまいました。
今朝は残間里江子さんと一緒にお送りしました!藤圭子さんの貴重なお話などお伺いしました。明日は荻原博子さんとお送りしますよ~!! pic.twitter.com/WGKRoYMLUH
— 生島ヒロシ (@i_hiroshi1224) August 27, 2013
一見、左目が見えないようには感じませんでしたが、記者・編集者、物書きとして目を酷使するお仕事なだけに、そんな大きなハンデがあったのですね。
努力家であることが伝わります。
若い頃画像!
現在も笑顔がとってもチャーミングな残間里江子さんですが、若い頃はよりチャーミングだったことでしょう。
では、ご覧ください。
残間里江子さんの若い頃画像!←こちらから。
色白で、やっぱりチャーミングな残間里江子さんの画像満載でしたね~。
今回はここまでです。
これからも、さんの残間里江子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!
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