長野智子の夫と子供は?ひょうきん族って?年齢や鼻が!先祖が偉人!

2022年4月15日アナウンサー・DJ

フリーアナウンサー、キャスターとして活躍の長野智子さん。

 

近年は、テレビ朝日系列の情報・報道番組で多く見かけますが、もともとは大学卒業後、フジテレビに入社しています。

 

国籍は日本ですが、生まれはアメリカニュージャージー州です。

 

長野智子さんの父親は大手商社にお勤めで、ニューヨークに赴任中に長野さんが誕生しています。

 

学歴を見ると中学高校は、雙葉学園を卒業。

 

大学は上智大学外国語学部英語学科卒業。

 

ニューヨーク大学大学院修了(結婚後)されています。

 

女子アナというと、個人的に環境に恵まれたお嬢様育ちの方が多いのかな?と思っていましたが、長野智子さんの場合は自身が7歳の頃に父親が早逝されています。

 

この為、母親ひとりで長野さんの兄と智子さん二人の子供を育ててきたそうです。

 

これほどすてきな女性に女手一つで育てるなんて、素晴らしい母親ですね。

 

 

 

 

もくじ

長野智子夫の仕事と奇跡的な馴れ初めとは?

 

長野さんは1990年に結婚。

 

のお仕事は、亡き父親と同じ商社にお勤めの方でした。(ご主人は三菱商事では?という噂)

 

二人には運命的ななれそめのエピソードがあります。

 

人気アナウンサーとなっていた長野さん、ようやくもらった夏休み休暇に母親とともにニューヨークへ旅行をしました。

 

ニューヨークは智子さんと母親にとって、父親の活躍・面影・思い出のある場所。

 

その旅行中にアメリカに住んでいる友達に紹介されたのが、現在の夫となりました。

 

母親は、父親のような商社マンではなく、智子さんの夫になる方は芸術家が理想と思っていたそうです。

 

長い年月を巡り巡って、また母親と同じ商社関連のお仕事をしている方と出会うなんて不思議なご縁ですね。

 

 

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子供は?

 

長野さんの結婚年齢は28歳でしたので、子供の誕生も望める年齢でしたが、子供はいらっしゃらないそうです。

 

結婚後はニューヨークへ渡り、大学院で学ばれるなど、学業にも専念。

 

大学院卒業後は日本へもどり、待ってましたといわんばかりのキャスター復帰。

 

現在まで途切れることなく活躍をみせています。

 

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ひょうきん族アナって?

 

1980年代、お笑い界に大旋風を巻き起こしたバラエティー番組「オレたちひょうきん族」。

 

今ではお笑い界の大御所といわれている人たちが、体を張ってのコントを繰り広げていました。

 

懐かしいです~。

 

中でも人気企画だった「ひょうきんベストテン」の司会者、「ひょうきんアナ」として長野智子さんが担当していました。

 

ちなみに長野さんはひょうきんアナの3代目。

 

初代は山村美智子アナ、2代目は寺田理恵子アナがつとめていました。

 

ステキな先輩たちですね。

 

 

年齢が!

 

年齢は1962年生まれなので、アラフィフ世代後半に入ってきました。

 

活力ある司会っぷりや、変わらない美しさから、まったく年齢を感じさせませんね。

 

そして、「」についてですが、たいてい顔のパーツの一つで検索されているのを見ると、「整形」を疑って検索されている方が多いようです。

 

長野智子さんの若い頃画像!←こちらから

 

若い頃の長野さんの画像をご覧になっていただいてお分かりの通り、昔から小鼻がしっかりと高いですよね。

 

メイク一つで、まったく印象がかわってきますので、長野さんに限っては「」をいじったという事はなさそうです。

 

先祖が偉人!

 

長野智子さんから曽祖父に当たる「長野桂次郎」氏。

 

幕末から明治初期に活躍された武士である勝海舟とともに、長野さんの曽祖父は16歳の頃、「岩倉使節団」に通訳として随行した経歴があります。

 

帰国後、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使であったハリス氏の指名で、公使館通訳や江戸幕府第15代将軍慶喜の通訳を務めました。

 

長野桂次郎氏は、学術に長けていたことは勿論、ユーモアのセンスも高かったことから、人望が厚かったといわれています。

 

ちなみに、長野桂次郎氏は幾度か改名しています。

 

幼少期は横尾為八(よこおためはち)よばれ、里子にだされていたのだそうです。

 

その後、10歳の頃母方の実家の養子となり、米田為八(こめだためはち)と名を変えました。

 

次に通訳として活躍し始める16歳頃は立石家の養子となり、立石斧次郎(たていしおのじろう)という名になります。

 

その後、米田桂次郎(こめだけいじろう)という名をなのり、最後に長野桂次郎(ながのけいじろう)という名前で、岩倉使節団に通訳として随行しました。

 

何度も里子に出されることで、早く周囲に受け入れる術をユーモアとして手にしたのかもしれません。

 

周りを和ませる才能は、ひ孫である智子さんにもきちんと引き継がれているようですね。

 

今回はここまでです。

これからも、長野智子さんの活躍を期待しています。

次の記事もおたのしみに!