黒柳徹子眞理以外の兄弟姉妹は?父や母は?田川啓二とは?ピアニストの彼は?年齢や水中ヨガは?

2025年10月16日女優

もくじ

黒柳徹子さんのプロフィール

 

黒柳徹子さんは、1933年8月9日、東京府東京市赤坂区乃木坂で生まれました。

 

現在90歳を超えていますが、女優、タレント、司会者、エッセイストとして変わらず活躍を続けています。

 

日本史上最初のテレビ出演者の一人として、1953年のテレビ放送開始初日から出演し、草創期を支えてきました。

 

女性として初めてニュースショーのキャスターやトーク番組の司会を務め、日本芸術院会員にも選ばれています。

 

また、1984年からユニセフ親善大使を務め、国際的な活動も展開しています。

 

愛称の「トットちゃん」は、幼少期のエッセイ『窓ぎわのトットちゃん』に由来します。

 

学歴については、幼少期に通ったトモヱ学園を卒業後、香蘭女学校の中等科と高等科を修了しました。

 

その後、東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)の声楽科を卒業しています。

 

卒業後はオペラ歌手を目指しましたが、適性がないと判断し、NHK放送劇団の俳優募集に応募。

 

約6000人の応募者の中から選ばれました。また、文学座附属演劇研究所の3期生として入所し、演技を学びました。

 

幼少期の黒柳徹子さんは、活発で好奇心旺盛な性格でした。

 

父の音楽練習場が移ったため、大森区北千束町で育ちました。

 

尋常小学校の1年生の頃、授業中に立ち歩いたり友達を誘って遊んだりするなど、集中力が続かず「問題児」と見なされ、わずか3か月で退学になりました。

 

母はこれを機に、自由な校風で知られるトモヱ学園へ転校させます。

 

そこで「あなたは本当はいい子なんだよ」と繰り返し励まされ、自信を取り戻しました。

 

太平洋戦争末期の1945年3月、東京大空襲を経験し、家族で青森県三戸郡諏訪ノ平へ疎開。

 

終戦後に東京へ戻りました。母の妊娠中、両親は男児を想定して「徹」という名前を考えていましたが、女児が生まれたため「徹子」と命名されました。

 

黒柳徹子さんは自著で、こうした幼少期のエピソードから学習障害の可能性を指摘しています。

 

学生時代は、音楽学校での声楽の勉強が中心でした。

 

オペラ歌手への道を模索する一方で、演劇への興味も芽生え、研究所での訓練を通じて表現力を磨きました。

 

 

眞理以外の兄弟姉妹は?

 

黒柳徹子さんの家族は、音楽や芸術に縁の深い環境で育ちました。

 

妹の黒柳眞理さん以外に、弟が二人いました。

 

上の弟は黒柳明兒さんで、1944年に妹の眞理さんが生まれた直後、5か月で敗血症により9歳の若さで亡くなりました。

 

黒柳徹子さんはこの弟の記憶がほとんどなく、家族の悲しみが深かったようです。

 

下の弟は黒柳紀明さんで、ヴァイオリニストとして活動しています。

 

父の影響を受け、音楽の道を選びました。

 

一部の資料では、三男の黒柳貴之さんの存在も記されていますが、詳細は公表されていません。

 

こうした兄弟姉妹の関係は、黒柳徹子さんの自伝で家族の絆として描かれています。

 

父や母は?

 

黒柳徹子さんの父は黒柳守綱さんで、ヴァイオリニストとして知られています。

 

新交響楽団のコンサートマスターを務め、日本初のプロオーケストラの中心人物でした。

 

母の黒柳朝さんは、エッセイストとして活躍し、旧姓は門山です。

 

音楽学校の声楽科で学んでいた頃、守綱さんと出会いました。

 

守綱さんは朝さんを「見つけるのが早かった」と語られるように、強い想いで結婚に至りましたが、当時の家族から反対され、駆け落ちに近い形で結ばれたそうです。

 

戦争中、守綱さんが疎開先で病に倒れ、朝さんは女手一つで徹子さんを含む三人の子どもを育てました。

 

NHK交響楽団の仕事も手伝いながら、家庭を守り抜きました。

 

朝さんのエッセイには、こうした苦難の日常が克明に記されています。

 

守綱さんは1954年に亡くなり、朝さんは1995年まで生きました。

 

 

田川啓二とは?

 

田川啓二さんは、ビーズ刺繍作家として活躍するアーティストです。

 

黒柳徹子さんとは、2002年に放送された「徹子の部屋」での共演をきっかけに、公私にわたる親しい友人関係を築いています。

 

黒柳徹子さんは田川さんの作品の美しさに魅了され、以来、衣装のオーダーメイドを依頼。

 

華やかなビーズ刺繍のドレスを数多く手がれています。

 

田川さんは黒柳徹子さんの仕事のマネジメントも担い、YouTubeチャンネル「徹子の気まぐれTV」の進行役を務めています。

 

軽井沢町の別荘には、黒柳徹子さん専用の「徹子の部屋」があり、田川さんの運転で訪れる姿が動画で紹介されています。

 

2018年には、一般財団法人黒柳徹子記念財団を設立し、田川さんが代表理事に就任。

 

黒柳徹子さんのコレクションを活用した文化活動を推進しています。

 

2025年7月には、軽井沢に黒柳徹子ミュージアムがオープンし、田川さんが7年にわたり準備を進めたそうです。

 

二人の絆は、互いの創造性を刺激するものです。

 

 

ピアニストの彼は?

 

黒柳徹子さんは、30代後半の頃、来日公演で出会ったフランス人のピアニストと、約40年にわたる遠距離恋愛を経験しました。

 

お相手は国際的に活躍するユダヤ系ピアニストで、音楽の才能と優しさに惹かれました。

 

初めは音楽を通じて親しくなり、結婚も視野に入れましたが、相手の海外生活が主で、年に1、2回の再会がほとんどでした。

 

会話は英語で行われ、FAXでの文通が続きました。

 

ドラマ『トットちゃん!』では、この関係をモデルにした国際的なピアニスト「カール・祐介・ケルナー」が登場します。

 

お相手は2012年頃、パーキンソン病を発症した末に亡くなり、恋はそこで終わりました。

 

黒柳徹子さんは、この恋を「人生一番の大恋愛」と振り返っています。

 

2025年9月には、歌手の藤井風さんとの共演で、ピアノの演奏に過去を重ね合わせたそうです。

 

水上ヨガは?

 

黒柳徹子さんは、ヨガが得意で、特に水中ヨガを特技としています。

 

着衣のままプールに仰向けになり、背中から浮かぶポーズを披露し、20分以上浮遊できるそうです。

 

2024年8月、タイ・バンコクのホテルプールで5年ぶりに挑戦し、脚を上げてプカプカ浮く様子をYouTubeで公開しました。

 

「私、まだまだ浮ける!」と喜ぶ姿が印象的です。

 

バンコク滞在中のリフレッシュとして取り入れ、90歳を過ぎても柔軟性を保っています。

 

こうした水中ヨガは、黒柳徹子さんの日常の健康法の一つです。

 

今回はここまでです。
これからも、黒柳徹子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!

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