北山修の妻と子どもは医師!「帰って来たヨッパライ」クルセダーズから精神科医・学長までの軌跡

北山修さんの魅力は、フォークソングの時代を象徴する作詞家・歌手としての顔と、精神分析を極めた精神科医・大学学長としての顔が、一人の中で自然に共存している点にあります。

「帰って来たヨッパライ」で一世を風靡したザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして知られる一方、現在は白鴎大学の学長を務め、精神分析の第一人者としても活躍を続けています。

今回は、そんな北山修さんのプロフィールから始まり、幼少期、学生時代、音楽活動、医師としての道、そして妻や子どもたちとの家族の様子、さらには精神分析とフォークソングが交差する興味深いエピソードまでを、丁寧にまとめていきます。

 

北山修さんのプロフィール

まずは基本的なプロフィールを整理してみましょう。

項目内容
氏名北山修(きたやま おさむ)
別名きたやまおさむ、自切俳人など
生年月日1946年6月19日
出身地兵庫県洲本市(淡路島)生まれ、京都府京都市育ち
学歴洛星中学校・高等学校、京都府立医科大学医学部卒業
学位医学博士
主な肩書き精神科医、精神分析家、作詞家、歌手、九州大学名誉教授、白鴎大学学長
代表作(作詞)「帰って来たヨッパライ」「戦争を知らない子供たち」「あの素晴しい愛をもう一度」「花嫁」「風」など

北山修さんは、医師としては漢字の「北山修」、音楽活動では平仮名の「きたやまおさむ」を使い分けるスタイルを長く続けてきました。

この二重性そのものが、彼の人生を象徴しているとも言えます。

 

 

幼少期と実家の環境

北山修さんは1946年、兵庫県淡路島の洲本市で生まれました。

その後すぐに京都府京都市へ移り、そこで育ちます。

父は元軍医で、満州に出征した経験を持ちながら、病気を理由に帰国した人物でした。

京都駅前に医院を開業し、休むことなく働き続けていたといいます。

父は「生き延びた罪悪感」を抱えていたと、北山修さん自身が後に語っています。

こうした家庭環境の中で、幼少期から医療の匂いを身近に感じて育ったことは想像に難くありません。

一方で、戦後のアメリカ文化に強く憧れ、音楽に夢中になる少年でもありました。

父からは「チャラチャラした態度で帰ってくるな」と注意されることもあったそうです。

音楽への傾倒と、医師の家系という堅実な背景が、早くから彼の中で交錯していた様子がうかがえます。

 

学生時代と音楽との出会い

洛星中学校・高等学校時代、北山修さんはすでに音楽に親しんでいました。

カントリー・ミュージックを好み、後輩とともに「衣笠マウンテンボーイズ」というバンドでギタリストを務めていたといいます。

京都府立医科大学に進学後の1965年、大きな転機が訪れます。

同じ京都の大学生だった加藤和彦さんが雑誌に出した「メンバー募集」の投稿に応募し、ザ・フォーク・クルセダーズに加入したのです。

ベースが空席だったため、軽い気持ちでベーシストになったと本人は回想しています。

この出会いが、後の大ヒットを生むきっかけとなりました。

1967年、「帰って来たヨッパライ」が深夜放送で火がつき、記録的なヒットを飛ばします。

医学生でありながら、1年間休学してプロ活動に入り、全国的な注目を集めました。

この時期に初めて作詞を手がけ、「コブのない駱駝」などを書き下ろしています。

 

作詞家としての活躍と「戦争を知らない子供たち」

ザ・フォーク・クルセダーズ解散後も、北山修さんは作詞家として精力的に活動を続けました。

「あの素晴しい愛をもう一度」「風」「花嫁」「白い色は恋人の色」「初恋の人に似ている」など、時代を代表するフォークソングを次々と世に送り出します。

特に1970年の「戦争を知らない子供たち」は、日本レコード大賞作詞賞を受賞した代表作です。

戦後生まれの若者の心をつかみ、反戦のメッセージを優しく、しかし力強く歌い上げた歌詞は、今も多くの人に歌い継がれています。

「9割が実話」と本人が語るほど、自身の体験や周囲の出来事を丁寧に織り込んだ詞が特徴的でした。

父の戦争体験と生き延びた罪悪感が、この歌の背景に静かに息づいている点は、後の精神分析的視点ともつながります。

 

精神科医への転身とロンドン留学

華やかな音楽活動の一方で、北山修さんは医師の道を諦めていませんでした。

1972年に京都府立医科大学を卒業後、札幌医科大学で内科研修を積みます。

その後、ロンドンのモーズレイ病院とロンドン大学精神医学研究所で2年間の研修を受けました。

ここで精神分析の本質に触れ、帰国後は本格的に精神科医・精神分析家としてのキャリアを歩み始めます。

1980年には北山医院(現在の南青山心理相談室)を開設。

1986年には国際精神分析学会の正会員となり、日本におけるウィニコット研究の第一人者として知られるようになりました。

音楽は「人生の一部分」と位置づけ、臨床と研究に軸足を移していったのです。

 

精神分析とフォークソングが交差するエピソード

北山修さんの人生で特に興味深いのが、精神分析とフォークソングが深く結びついている点です。

作詞家として人の気持ちを言葉でつかまえるのが上手だと自覚した経験が、精神医学・精神分析の道へ自然につながったと本人は語っています。

心の内側を表現する言葉の大切さは、歌詞作りと臨床の両方で共通する核心だったのです。

音楽そのものが精神衛生を保つ宝物であり、癒しの捌け口だと位置づけています。

「歌のための人生」ではなく「人生のための歌」という意識を持ち続け、仕事にならない範囲で音楽を守ることで、心のバランスを保ってきたといいます。

自ら間歇性外斜視であることを医学部の実習で知り、その中間的な状態を精神分析的に考察したエピソードもあります。

二者択一ではなく、中間の曖昧な状態に創造的な瞬間が宿るという視点は、フォークソングの持つ多義性や、歌詞の余白とも響き合います。

2005年に編著した『こころを癒す音楽』では、ミュージシャンと深層心理学者の二つの領域を橋渡しし、音楽が心に与える影響を丁寧に掘り下げました。

NHK-FMの冠番組『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』では、精神医学・心理学の視点からロックやポップスを語り、講義と音楽を融合させたスタイルを実践しています。

これらの活動を通じて、フォークソングが単なる娯楽ではなく、心の深層を映し出す媒体であることを、自らの人生で体現してきたと言えるでしょう。

 

大学教員から白鴎大学学長へ

1991年、九州大学教育学部助教授に就任し、1994年には教授となります。

人間環境学研究院や医学研究院でも教鞭を執り、2010年に定年退職。

九州大学名誉教授の称号を得ました。

その後白鴎大学へ移り、教授、副学長を経て、2021年4月から学長に就任しています。

現在も精神分析の臨床を続けながら、大学運営と後進の指導に力を注いでいます。

著書も多数あり、『劇的な精神分析入門』『最後の授業』『幻滅論』『定版 見るなの禁止』など、専門書から一般向けまで幅広く執筆しています。

 

妻と子どもたち――医師一家の素顔

北山修さんの家族についても触れておきましょう。

妻の氏名は公表されておらず、馴れ初めの詳細も公には明かされていません。

しかし、結婚後は一男二女をもうけ、家族で支え合いながら歩んできたことが伝えられています。

子どもたちは医師の道を選んだ点が印象的です。

続柄名前・職業など
氏名非公表
長男北山徹さん(歯科医、北山デンタルクリニック銀座院長など)
長女北山英美子さん(形成外科医、フェミークリニック総院長)
次女詳細非公表

長男の北山徹さんは歯科医師として活躍し、銀座などでクリニックを構えています。

長女の北山英美子さんは東邦大学医学部を卒業後、形成外科で研鑽を積み、2003年に渋谷フェミークリニックの院長に就任。

2006年からはフェミークリニックの総院長を務め、美容皮膚科の第一線で活躍しています。

父である北山修さん自身が医師であり、父も医師だった家系の影響が、自然と子どもたちにも受け継がれた形です。

派手な話題を好まず、静かに家族を大切にする姿勢が、北山修さんの人柄を表しているようです。

 

音楽と医療を両立し続ける現在

学長職を務める傍ら、北山修さんは今も音楽活動を完全に手放してはいません。

コンサートやトークイベントに登場し、かつての名曲を自ら歌ったり、若い世代に語り継いだりする姿が見られます。

精神分析の視点から音楽や日本の昔話を読み解く講演も好評で、「むなしさ」や「創造性」といったテーマを深く掘り下げています。

「どっちつかず」の状態を肯定し、遊びや文化の中で生きる大切さを説く姿勢は、医師としても作詞家としても一貫しています。

 

まとめ――二つの道を歩む生き方

北山修さんの軌跡を振り返ると、フォークの時代を駆け抜けた若者から、精神分析の専門家、そして大学のトップへと、着実に歩みを進めてきたことがわかります。

妻や子どもたちとともに医師一家を築きながら、音楽への想いも手放さない。

精神分析とフォークソングが交差するエピソードからは、言葉と心、創造と癒しがどのように結びついているのかが浮かび上がります。

そのバランス感覚こそが、多くの人を引きつける魅力なのでしょう。

「帰って来たヨッパライ」の軽快な響きと、精神分析の深い洞察が、一人の人間の中で見事に調和している。

これからも北山修さんの多面的な活躍から、目が離せません。