ひょうきん族アナって?
1980年代、お笑い界に大旋風を巻き起こしたバラエティー番組「オレたちひょうきん族」。
今ではお笑い界の大御所といわれている人たちが、体を張ってのコントを繰り広げていました。
懐かしいです~。
中でも人気企画だった「ひょうきんベストテン」の司会者、「ひょうきんアナ」として長野智子さんが担当していました。
ちなみに長野さんはひょうきんアナの3代目。
初代は山村美智子アナ、2代目は寺田理恵子アナがつとめていました。
ステキな先輩たちですね。
年齢や鼻が!
年齢は1962年生まれなので、アラフィフ世代後半に入ってきました。
活力ある司会っぷりや、変わらない美しさから、まったく年齢を感じさせませんね。
そして、「鼻」についてですが、たいてい顔のパーツの一つで検索されているのを見ると、「整形」を疑って検索されている方が多いようです。
長野智子さんの若い頃画像!←こちらから
若い頃の長野さんの画像をご覧になっていただいてお分かりの通り、昔から小鼻がしっかりと高いですよね。
メイク一つで、まったく印象がかわってきますので、長野さんに限っては「鼻」をいじったという事はなさそうです。
先祖が偉人!
長野智子さんから曽祖父に当たる「長野桂次郎」氏。
幕末から明治初期に活躍された武士である勝海舟とともに、長野さんの曽祖父は16歳の頃、「岩倉使節団」に通訳として随行した経歴があります。
帰国後、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使であったハリス氏の指名で、公使館通訳や江戸幕府第15代将軍慶喜の通訳を務めました。
長野桂次郎氏は、学術に長けていたことは勿論、ユーモアのセンスも高かったことから、人望が厚かったといわれています。
ちなみに、長野桂次郎氏は幾度か改名しています。
幼少期は横尾為八(よこおためはち)よばれ、里子にだされていたのだそうです。
その後、10歳の頃母方の実家の養子となり、米田為八(こめだためはち)と名を変えました。
次に通訳として活躍し始める16歳頃は立石家の養子となり、立石斧次郎(たていしおのじろう)という名になります。
その後、米田桂次郎(こめだけいじろう)という名をなのり、最後に長野桂次郎(ながのけいじろう)という名前で、岩倉使節団に通訳として随行しました。
何度も里子に出されることで、早く周囲に受け入れる術をユーモアとして手にしたのかもしれません。
周りを和ませる才能は、ひ孫である智子さんにもきちんと引き継がれているようですね。
今回はここまでです。
これからも、長野智子さんの活躍を期待しています。
次の記事もおたのしみに!