ジュディ・オングはなに人?なぜ日本へ…結婚歴や子役時代・若い頃~あの衣装と版画に魅せられて
ジュディ・オングさんは、歌手・女優・木版画家として長年活躍を続ける存在です。
台湾で生まれ、幼い頃に日本へ移り住んだ経歴を持ち、多言語を操りながら芸能界で輝いてきました。
ここではプロフィールから始め、なぜ日本へ来たのか、子役時代や若い頃のエピソード、結婚歴、あの印象的な衣装、そして版画への情熱までをお伝えします。
ジュディ・オングさんのプロフィール
ジュディ・オングさんは、台湾・台北市で翁家の長女として生まれました。
上に兄が一人います。
父は台湾のマスメディア関係者で、米軍GHQ関連の仕事に就いていました。
母は台南の名家出身です。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 生年月日 | 1950年1月24日 |
| 出身地 | 台湾・台北市 |
| 血液型 | A型 |
| 身長 | 153cm |
| 学歴 | 東京中華学校、アメリカンスクール・イン・ジャパン、上智大学国際学部卒業 |
| 本名 | 翁ジュディ(旧台湾名:翁倩玉) |
| 職業 | 歌手、女優、木版画家 |
家庭では台湾語を大切にし、学校では標準中国語を学び、英語の家庭教師もつけられていました。
幼少期から多言語環境で育ったことが、後の国際的な活動の基盤になっています。
なぜ日本へ来たのか 幼少期の移住と育ち
ジュディ・オングさんが日本へ来たのは、2歳から3歳頃のことでした。
父の仕事の都合で、一家そろって訪日したのです。
父は中国広播公司の要職にあり、駐日米軍GHQの心理作戦部関連で東京に転勤しました。
最初は父が先行し、その後母と兄、ジュディ・オングさんが合流した形です。
来日後は東京で暮らし始め、華僑の子供たちが通う東京中華学校に入学しました。
家庭では母語の台湾語を忘れないよう教育され、学校では国語として標準中国語を学びます。
さらに英語の家庭教師がつき、小学校低学年の頃に「ジュディ」というニックネームを選んだエピソードも残っています。
先生が提案した複数の英語名の中から、ジュディ・ガーランドを思い浮かべて「世界に一つ」のような響きが好きだと選んだそうです。
その後、視野を広げるためにアメリカンスクール・イン・ジャパンへ転校し、英語を本格的に習得しました。
上智大学国際学部を卒業するまで、学業をしっかり両立させる姿勢が貫かれています。
| 時期 | 主な環境 |
|---|---|
| 生誕〜2〜3歳 | 台湾・台北で誕生 |
| 2〜3歳 | 父の仕事で日本へ移住 |
| 小学校時代 | 東京中華学校からアメリカンスクールへ |
| 大学 | 上智大学国際学部 |
幼少期の習い事も多彩でした。
母の方針で、立ち姿を美しくするためにバレエを習い始めます。
母自身がピアノを弾いていた影響でピアノも続け、発音をはっきりさせるために少年少女合唱団にも入りました。
家にお客さんが来ると障子を幕に見立て、ティンカーベルの衣装で踊りを披露するような活発な子供だったそうです。
こうした経験が、後の舞台映えするパフォーマンスにつながっています。
子役時代と若い頃 劇団ひまわりからデビューへ
芸能界入りのきっかけは、10歳前後の出来事でした。
バレエ教室の友達に「劇団ひまわりへ行くの。スターに会えるよ」と誘われ、ついていったのです。
履歴書を見た先生が、4カ国語を話す東洋の顔の女の子に興味を持ち、テストなしで入団を許可しました。
父は芸能の世界を知っていたため猛反対しましたが、母が「やったことがないんだからやらせてみたら」と後押し。
学業を両立させることを条件に許可が下り、9歳か10歳で劇団ひまわりに入団します。
11歳の時、日米合作映画『大津波』(原作パール・S・バック)で女優デビューを果たしました。
原作者自らがオーディションに現れ、「that girl」と指名したという印象的なエピソードがあります。
子役時代は『三太物語』などのドラマに出演し、中村メイコさんと親子役で共演。
敬語が苦手だったジュディ・オングさんに、中村メイコさんが2年間丁寧に日本語を指導してくれたそうです。
石原裕次郎さんにも可愛がられ、人生の師と語るほど影響を受けました。
16歳で歌手デビューし、「星と恋したい」をリリース。
最初は女優業の余技という意識でしたが、歌の奥深さに魅了されていきます。
若い頃は香港スターとのデートや、寺尾聰さんとの交際なども伝えられています。
寺尾聰さんとはアメリカンスクールの卒業パーティーで知り合い、4年ほど交際した後も友人関係が続いているようです。
結婚歴と馴れ初め 画廊経営者との出会い
ジュディ・オングさんの結婚は、1991年または1992年頃のことです。
相手は画廊を経営する鈴木洋樹さん。
元商社マンで、ヒロ・ヤマガタの日本代理権を握り、年商数十億円規模の実力者と伝えられています。
木版画を本格的に始めていたジュディ・オングさんと、美術の世界で接点があったことが馴れ初めの背景と見られます。
結婚式は日本と台湾で盛大に行われ、政財界や芸能界の大物を含め約2000人が招待された大規模なものでした。
しかし結婚生活は約6年で終わり、1997年または1998年に離婚しています。
理由は双方の仕事が忙しく、すれ違いが生じたためとされています。
子供はいません。
現在は独身で、愛犬のウエスティたちと穏やかな日々を過ごす姿も語られています。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 結婚相手 | 鈴木洋樹(画廊経営) |
| 結婚時期 | 1991〜1992年頃 |
| 離婚時期 | 1997〜1998年頃 |
| 子供 | なし |
| 現在 | 独身 |
若い頃の華やかな交際歴を経て迎えた結婚でしたが、仕事を大切にする両者の生き方が、結果として短期間の結婚生活につながったようです。
あの衣装に魅せられて誕生秘話
1979年にリリースされた「魅せられて」は、200万枚を超える大ヒットとなり、日本レコード大賞を受賞しました。
ワコールのCMソングとして使われ、社会現象にもなりました。
特に話題になったのが、サビで両手を広げると翼や羽のように広がる純白の衣装です。
このデザインはジュディ・オングさん自身が発案したもの。
ギリシャ神話のサモトラケのニケや、エーゲ海の白い波をイメージし、腕を広げたときに袖が羽に見えるよう工夫しました。
ヒントの一つは、ダイアナ・ロスの来日公演でのドレスだったそうです。
紅白歌合戦ではさらにエクステンションを加え、巨大に広がる姿が印象に残りました。
この衣装は後に他の歌手の派手な衣装にも影響を与えたと語られるほどです。
ジュディ・オングさんは「ケガの功名だった」と振り返りつつ、自ら考案した衣装への思いを大切にしています。
歌いながら演じる3分間のドラマを意識し、女優としての経験が歌に生かされた代表作となりました。
版画への情熱 25歳から始めたもう一つの道
ジュディ・オングさんが木版画を本格的に始めたのは25歳頃です。
病気をきっかけに始め、棟方志功の孫弟子にあたる井上勝江さんらに師事しました。
最初は趣味でしたが、プロフェッショナルとなり、日展会友、白日会正会員に。
2005年には「紅楼依縁」で日展特選を受賞。
平等院を題材にした作品が奉納されるなど、高い評価を受けています。
2023年には故郷・台南市美術館で個展を開催し、入場者記録を更新。
2024年には建築家の兄・翁祖模さんと初の兄妹展を台北で開きました。
版木に向かうと仕事の疲れも吹き飛ぶと語り、理想の風景を描く作品は光と余白を大切にしたものが多いです。
歌や演技とは違う静かな創造の場として、今も続けています。
| 年 | 版画関連の主な出来事 |
|---|---|
| 25歳頃 | 木版画を本格開始 |
| 2005年 | 日展特選受賞 |
| 2023年 | 台南市美術館で個展 |
| 2024年 | 兄との兄妹展を開催 |
現在の活躍とこれからの姿
ジュディ・オングさんは歌手生活60周年を迎え、2026年10月には東京国際フォーラムで記念コンサートを開催予定です。
ゲストに小林幸子さんや中村雅俊さんを迎え、大きな舞台に立ちます。
最近では台湾映画への出演も話題となり、興行収入で記録を更新する作品に関わりました。
チャリティ活動にも熱心で、ワールドビジョン・ジャパンの親善大使などを務めています。
台湾と日本の架け橋として、両国の相互理解に貢献した功績で外務大臣表彰なども受けています。
若い頃の輝きを失わず、衣装や版画、歌を通じて人々を魅了し続けるジュディ・オングさん。
多文化の中で育った経験が、今の豊かな表現力につながっているのでしょう。
これからもその姿に、多くの人が魅せられていくに違いありません。
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