草笛光子は宝塚出身?旦那・子ども・父母や妹は?若い頃から岸恵子との仲は?中谷美紀が弔辞の真相

草笛光子さんのプロフィール

草笛光子さんは1933年10月22日生まれの女優です。

本名は栗田光子さんで、出生姓は富田です。

出身地は神奈川県横浜市神奈川区です。

身長は158cm、血液型はB型です。

草琇舎に所属し、オスカープロモーションと業務提携しています。

 

 

以下に基本情報をまとめます。

項目詳細
生年月日1933年10月22日
出身地神奈川県横浜市神奈川区
本名栗田光子(出生姓・富田)
身長158cm
血液型B型
所属草琇舎

幼少期は虚弱体質で、1週間通っては1週間休むような生活を送っていました。

身体を強くするため、小学生の頃からバレエを習い始めました。

小学校は横浜市立斎藤分国民学校です。

戦争が激しくなると横浜市内のお寺に学童疎開し、その後群馬県富岡に縁故疎開しました。

疎開先で下の妹を疫病で亡くした経験もあります。

終戦後は横浜に戻りましたが、実家は空襲で焼け、母方の祖父母の家で暮らしました。

高校は神奈川県立横浜第一高等女学校(現・横浜平沼高等学校)に進学しました。

創作舞踊のサークルに所属し、そこで1年先輩の岸恵子さんと出会っています。

高校は中退し、1949年に松竹少女歌劇学校へ入りました。

1950年に松竹歌劇団(SKD)に5期生として入団し、女優の道を歩み始めました。

 

草笛光子さんは宝塚出身? 本当の出自は松竹歌劇団

草笛光子さんは宝塚出身と噂されることがありますが、これは事実ではありません。

実際に入団したのは松竹歌劇団、通称SKDです。

宝塚歌劇団とは別の組織で、当時は宝塚と並ぶ人気を誇っていました。

 

 

淡路恵子さん、深草笙子さんとともに「スリーパールズ」として活動し、歌と踊りで注目を集めました。

1953年には映画『純潔革命』でスクリーンデビューを果たしています。

1954年にSKDを退団後、松竹や東宝で活躍し、日本ミュージカル界の草分け的存在となりました。

『ラ・マンチャの男』や『シカゴ』の日本初演に参加したことでも知られています。

 

草笛光子さんの旦那・子ども・父母や妹は?

草笛光子さんの家族構成について詳しく見ていきます。

父は富田智で、戦前は三菱重工業に勤務していました。

母は富田登美恵で、17歳で光子さんを出産しています。

戦後は夫が失職したため洋裁学校に通い、自宅で洋裁店を開いて家計を支えました。

後に光子さんのマネージャーを約30年間務め、2009年に92歳で亡くなりました。

兄弟は妹2人と弟1人の4人兄弟で、光子さんは長女です。

妹の一人は疎開先で亡くなり、もう一人の妹は女優の冨田恵子さんです。

弟の富田直幹は占い師として活動しています。

以下に家族情報をまとめます。

 

続柄名前・詳細
富田智(三菱重工業勤務)
富田登美恵(元マネージャー、2009年死去)
冨田恵子(女優)
(疎開先で疫病により他界)
富田直幹(占い師)

旦那については、1960年に作曲家の芥川也寸志と結婚しました。

芥川也寸志は文豪・芥川龍之介の三男です。

馴れ初めは、光子さんが松竹歌劇団にいた頃、ラジオ番組の収録で出会ったことです。

当時芥川には家族がおり、「離婚するから2年待ってほしい」と言われ、交際が続きました。

大恋愛の末に結婚したものの、親や周囲からは反対されました。

結婚後は女優業を休み、連れ子や義母と暮らす生活になりましたが、生活や仕事のペースが合わずギクシャクしました。

結婚生活は約1年9カ月で終わり、1962年に離婚しています。

二人の間に子どもはいません。

離婚後は再婚せず、仕事一筋の人生を送っています。

 

若い頃から岸恵子さんとの仲は? 岸恵子さんの訃報

草笛光子さんと岸恵子さんは、女学校時代からの親友でした。

神奈川県立横浜第一高等女学校で、岸恵子さんが1年先輩でした。

同じ舞踊サークルに所属し、70年以上にわたる付き合いが続いていました。

岸恵子さんは草笛さんを「明るくて歌と踊りがすごくうまかった」と評していました。

性格や生き方は正反対で、草笛さんは芸一筋、岸恵子さんはフランス人監督との結婚や文筆活動など国際的な道を歩みました。

それでも互いの生き方を認め合い、2022年には『徹子の部屋』で一緒に出演し、交流秘話を語っています。

 

 

草笛さんが筋トレを勧めた際、岸恵子さんは「あんなの嫌だ~」と白旗を上げたエピソードも話題になりました。

岸恵子さんは2026年8月7日、老衰のため横浜市の自宅で亡くなりました。

93歳でした。

所属事務所が8月19日に発表し、葬儀は故人の意志により近親者のみで執り行われました。

若い頃からの長い絆を思い起こさせる訃報となりました。

 

中谷美紀さんが弔辞を書いた真相

中谷美紀さんは草笛光子さんを「お母さん」と慕う仲です。

2013年の舞台『ロスト・イン・ヨンカーズ』で娘役を演じ、公私ともに親交を深めました。

中谷美紀さんは雑誌『悲劇喜劇』の特集で、草笛さんへの「生前弔辞」を寄稿しています。

これは悪ふざけを交えた愛情表現で、草笛さん自身も番組で「うまいの」と紹介し、笑顔で語っていました。

内容は「お母さん、今までお世話になりました」から始まり、核戦争が起きてもゴキブリと草笛さんだけは生き残る、といったユーモアあふれるものでした。

草笛さんは「最後はひどかったわね」と笑いつつ、立派な文章だと評価しています。

正式に弔辞を読むと決定した事実はなく、親しい間柄ならではのエピソードとして知られています。

中谷美紀さんは草笛さんの誕生日を祝福するコメントも寄せるなど、今も温かい関係が続いています。

 

若い頃から現在までの歩み

若い頃の草笛光子さんは、SKD時代に華やかな舞台を踏み、映画やテレビで人気を博しました。

1958年から始まった『光子の窓』では自ら司会を務め、お茶の間の人気者になりました。

その後も『犬神家の一族』などの映画、大河ドラマや舞台で活躍を続け、日本ミュージカルのパイオニアとして評価されています。

近年は『九十歳。何がめでたい』で主演を務め、国内外で注目を集めました。

母との二人三脚で芸能界を生き抜き、妹の冨田恵子さんとの姉妹ショットも話題になるなど、家族や友人との絆を大切にしています。

宝塚出身ではない出自、短い結婚生活、子どもがいない私生活、岸恵子さんや中谷美紀さんとの温かい関係が、草笛光子さんの人柄を浮き彫りにしています。